fx WEBおもしろ情報収集用ブログ(β版):  支那人 (1〜30・完)

自己紹介

自分の写真
ネットの 面白い情報を集めています!/ 各日記のタイトルを関連するウェブ サイトに飛ぶように設定しています! 別のページに飛ぶことがあるのはこの為です。/ ネタをネタと見抜けぬ者はこのページを見てはいけない!! このページの内容に関して謝罪や賠償を要求されてもいっさい応じません、そんなことをしたらネタにするのでよろしく(笑)。 /ゲームで焦ったらコントローラーを手から離そう!/アーカイブが長いので読みたい人は閉じてください。/アップル - Safariブラウザからみることをお勧めします。/

ブログ アーカイブ

2008年4月22日火曜日

 支那人 (1〜30・完)

新聞記事文庫 中国(18-061)
東京日日新聞 1939.6.9-1939.7.14(昭和14)


支那人 (1~30・完)


ある支那の要人が、こんなことをいったことがある
「日本人は支那人が判らぬ判らぬというが、支那人にも日本人が判らない、われわれは一緒になって仕事をしているが、よく日本人は怒る、なぜ怒った か判らない、われわれは頭の働きが鈍いのかも知れんが、日本人が怒ったわけがハッキリのみこめるまでに日本人は三度ぐらい怒ったり、笑ったりしている」
これは笑話ではない、満洲でも、北支でも、こうしたことは屡々経験するところである、支那人の、こうした不満は逆に日本人から見ると「どうして 支那人は、こうまでのろまで物判りが悪いんだろう」ということになる、どちらも理窟があるが、ともかくこうしたささいなことで、もっと大きな誤解や無理解 から来る両国民融和の上の邪魔が至るところに横たわっている、今、日本は挙国犠牲を払って新東亜の建設にのり出し、日満支三国の緊密な提携の中心となって 行動しているのである、新東亜建設は満、支人との協力のもとに行われねばならぬのであり、これがうまく行って興亜の大業は順序よく進められる、前途に横た わる幾多の困難を征服することもさることながら、協力者たるべき支那および支那人について認識を深めることは今より切実なる時はない、こうした考えから、 支那および支那人を身をもって知っている人々を煩わし連載することとした、ここに掲載するものだけで我々の前に述べた意図を全的に満足させるものでないこ とは勿論であり、これらはほんの序論に過ぎないがいささかでも興亜大業推進の協力者としての支那及び支那人を理解する一助ともなれば幸いである

(1) 生きる途・政治的手腕 特性を生んだ家族制度 村上知行

脳髄を練る中国人

 このごろ北京の街を歩いていると、俥の上で「快々的!」と喊いている日本人をよく見かける。「早く走れ」という意味 だろうが、中国人は、そういう場合「快著点児」としかいわない。「快々的」とは誰の発明だろうか? それはとまれ日本人としては「快々的」でも俥夫が早く 走らない場合、怒るか、殴るかするより外に方法がないらしい。然し中国人だと「金を余計やるから早く走れ」という。俥夫は忽ち機嫌よくして箭の如くに快走 するし、若しまた金を余計にやるのが厭ならば、他に適切有功な方法を考える。たとえばそろそろ暑くなりかけたこの頃だと、アイスケーキを手にして乗るのも 一方法だろう。
「おい、速く走ってくれ!でないと途中でこれが融けてしまう。」
 俥夫は、なる程理窟が通っていると思うので、どうしても韋駄天にならざるを得ない。まア、これは冗談だが、兎に角日本人と中国人とでは生活に処 しての「やり方」が違っている。「やり方」が違うのは「頭の働き」が違っているからで「頭の働き」が違うのは結局「社会」が違っているからだ。
 「日本人は知識を使い、中国人は脳髄を使う。」私は今両国人の頭の働きの違いを仮りにコウ表現して置こう。
 日本の小学教師は知識には複雑である。中国人の多くは知識には単純でも脳髄は複雑である。なかでも特に苦力は知識を涵養するだけの機会を恵まれ ないけれど生活を通じて接触する中国の社会により思う存分に脳髄を鍛われる。しかしながら日本の小学教師は、兎も角も月給を保証され、それに一応信頼出来 るので、そう対社会的に頭を練る必要もなく灯下読書に親しむだけの文化的な余裕がある。それは全く月給に信頼することの出来るように事務的に整理されてい る日本社会の賜物なのだ。これに反し中国の社会は月給があてになるほど整理されていない。大学教授の俸給が滞おったり不渡りになったりすることは、日本で は想像も出来ないけれど、中国ではザラにある。一体、それほど事務的に整理されざる社会は、何によって整理され、維持されて行くのであろう? 結局ピンか らキリまで政治的に解決される外はない。つまり日本社会では一切が事務的であり、中国の社会では一切が政治的である。従って日本の社会で事務的な訓練なき 者が落伍するように、中国の社会では政治的手腕なき者が落伍する。

非事務的社会の特色

 中国人の頭が複雑だとか、分りにくいとかは、よく日本人によっていわれる文句だが、それは畢竟中国人が非事務的な 社会に処して思う存分その脳髄を政治的に訓練されるからである。中国人が殆ど日本人と比較にならないほど交際に巧であり勤勉であるのも、つまりは交際が政 治的手腕の応用であり手段であるからだ。
 中国の社会をかくの如く特色あらしめたのは、勿論いろいろ原因もあるけれど、しかし、その最も根本的な原因は国家としての中国が、家族を単位 として組成されている点にあるだろう。家族によってまず構成されるものは何かといえば、家庭であり、その家庭が決して事務的にのみ維持出来ないことは、日 本人の誰しもが合点出来ることだ。女房の嫉妬だのヒステリーだのが事務的に処置され得ない限り、家庭は事務的ならざる他の才能によってはじめて円満に治ま る。

家族制の礎「忠」「孝」

 中国の家族制度は宗法的家族制といわるるもので、この制度は勿論過去幾千年来揺ぐことのなかった中国の生存の 支柱たりし農村自然経済に関係がある。農村の生産即ち農業は家族の中の誰か一人の労働にのみよって維持さるるものでなく、家族全体の協労を前提とする。 従って個人よりも家族が重んぜられ、勢い国家もまた家族本位に構成され、国家は家族の拡大体ということになった。宗法的家族制の下に在って一族の首領たる ものは家長である。この家長は己が権力と家族の存続とを維持せんがため「孝」を以て家族全員の行動の規範とした。同時にかかる家族を組成の単位とする国の 元首は、こうした諸々の家長の上に立つ家長であり、この家長は「忠」によって維持される。しかして「忠」は中国本来の考え方によれば「孝」の変貌せるもの であること、たとえば「孝経」に「孝を以て君に事れば則ち忠なり」とあるに徴しても明かであろう。
 同じ「孝経」の中に「夫れ孝は天の経なり、地の誼(義)なり、民の行なり」とあるが、孔子が果してそういったか、どうかは知らないけれど、兎に角、こういう思想は上述したような家族本位の中国の社会から当然本能的に生れて来べきものだった。

村上知行氏

福岡市生れ、彼の語るところによれば同県下甘木町の貧民窟に育ち、学歴全然なく、商店の丁稚、給仕、速記者、新聞記者等を経 て新派劇の作者となり劇団と共に旅興行しつつ日本各地を放浪すること数年、その間芸妓検番の書記になったこともあった。後乞食同然の姿で渡支したという。 極めて数奇な運命と戦って来たのち、北京に落つき爾来支那及び支那社会に没入し満洲事変後美しい文章とすぐれた観察をもって祖国日本に名を知られて来た、 支那婦人を夫人とし、その次々に発表する随筆、論文は益々冴えて来た。「旧き支那、新しき支那」「支那及び支那人」等の著書があり、最近「三国志」の翻訳 を完成した。

[写真あり 省略]

(2) “孝”・本然の姿を失う 村上知行 形骸化し家庭に淫す

 中国の社会は今日に至るまで農村自然経済の段階を脱してはいない。勿 論近世に入って百年来、外国資本主義が中国に立脚地を得て主要な支配勢力となってからは、かかる農村自然経済も明かに破壊、解体の歩調を踏み出してはいる が、しかし、それでも崩れ切るまでにはなお距離を残している。それがため過去幾千年綿々として連らなった農村自然経済時代に発生し持続された家族制、俗に 「大家族制」といわれているものは、今日にもなお執拗に維持され自然かかる家族制の中から発芽育成された「孝」の観念もまた執拗に残っている。今もし儒教 の諸観念のうちで今日になお存しているものを求めたならば、少し矯激ないい方ではあろうが、あるいは「孝」のみではなかろうか? 同じく孝といっても中国 のそれは日本のと多少趣を異にしている。
 なるほど「孝経」に説かれている孝を、単に文字のみに即して解釈してみれば東洋倫理の基幹としてこの上もない燦爛たるものであり後に至って孟 子が「尭舜の道は孝弟のみ」といったのも決して過言だとは思えない。また曽子が「夫子の道は忠恕のみ」と断言したのに対し誰(確か章太炎ではなかったかと 思うが)かが抗議を提出し「忠恕は孔子にとって単なる手段である。孔子の道の根本は孝だ」といったが、これも「孝経」のあの美しく巧な表現を見ては、全く さもあろうとうまずかれる。しかしそれが現実に移されると忽ち崩れて、「孝経」を正則的に伝えた日本の孝とは、いろいろ違った形を持つようになった。今も しその差別を一一列挙していては到底煩に耐えないので単にその最も著しき点についてのみ左に略述してみよう。

日本との「孝」の違い

 それは「孝経」に描かれたような孝を実現するだけの社会的もしくは国家的な条件が中国に欠如していた。その条件 とは外でもない、日本におけるが如き皇室が中国に存しなかった事実である。勿論中国にも天子はいた。寧ろ天子に粗製濫造の嫌いがあったくらいだ。だがその 天子は日本の皇室と似て非なるものである。
 宋の末期か元初期の作品であろうと想像され、且、例の「水滸伝」の監本となった点で殊に有名な「宣和遺事」という小説本を読むと、その冒頭に次のような文辞が出ている。
 「茫々たる往古より今に至るまで、上下三千余年、興廃のあと数うべくも非ず、而して光風霽月の時は少なく、陰雨晦冥の時は多い。衣冠文物の時は少なく、干戈征戦の時は多い。」
 そして、更に続けて、こうした天下の治乱は全く
 「皇帝一人の心術の邪正による」と断じている。つまり天下が乱れるも治まるも天子一人の責任だというのである。この観念は更に後に説くが如く中 国の民間に極めて古くより存するもので、同時にかかる観念を存在せしめた事実が中国の天子の正体の如何なるものであったかを裏書きしているだろう。いずれ にせよ、わが日本臣民の間には全く許され得ない観念である。

ただこれ家のため

 さて、かかる観念をもって天子を見るようになった途端に孝の変貌を来した。「夫れ孝は親に事うるに始まり、君に事う るに中し、身を立つるに終る」とある孝経の文句の中、「君に事うるに中し」の一説が脱落し、自然また「身を立つる」云々も、社会のためとか、国家のためと かいうような公な意味を失い、単にわが家のためにという利己的なものとなった。奉公の観念が全く消えて「孝」そのものは家庭の桎梏の中に生埋めにされてし まった。
 今もし日本の孝を上下四方に広がる孝だとすれば、中国の孝は家庭の中に凝縮された孝である。従って中国の孝はそれを家庭に即して観るならば、 日本の孝の淡く優しく合理的なるに比し、甚だ濃厚であり我武者羅であり爛れ切っている。親の葬式に全財産を費消したり、棺桶買うために娘を売ったり、子を 生むために妾を一ダースも仕入れたり、子なき嫁を叩き出したり、こうした中国社会にふんだんに見られる家庭現象も悉くがかかる孝の観念に繋がるものであっ て、社会的乃至国家的見地からすれば誠に厄介千万な孝なのだ。

執拗なるその一例

 中国では「孝」の観念が宗教化しているところにも一つの特色が認められる。だからして宗教が何れの国においても、得 てして形骸化して存するように、中国の孝もまた甚だしく形骸化している。「愛敬、親に尽くして後に徳教、百姓に加わり四海に刑(自然に化す)す、蓋し天子 の孝なり」というような、ユートピアは中国歴史のいずれのページにも未だ実現されしことありとも覚えられぬが、しかし親が死んだ際「哭泣、●踊(胸を打ち 地団駄踏む)哀んでこれを送り、その●兆(墓地)を卜してこれを安措す」というような孝の形式の一つは、今日の中国社会に日常ふんだんに瞥見するところで ある。
 最近内地から来た人が私を訪ねて「今日は一体何があるんですか?街で大したお神与の行列にぶつかりましたが……」と目を丸くして聞いた。「お 葬式でしょう」と答えたら、まるで気絶しかねないくらいびっくりしていたが、まア、これなどは孝の形式方面の保存されていること、如何に執拗なるかを証明 する一例である。形式が残る以上、精神もそれに附随して、稀薄になるとか、部分化されるとか、歪曲されるとか、その他何等かの変化はあるにせよ、兎に角あ る程度まで残るものだ。

(3) 本来の政治的脳髄 事務的日本人と対立 村上知行

濁波を更に濁す”孝”

 われわれは阿片戦争以来の中国-則ちその経済が帝国主義の附庸として半植民地的経済という形において世界経済の 範疇に入るようになってからの新しき中国の政治的な、社会的な、または思想的な、めまぐるしい変化を知っている。軍閥、官僚、土豪、劣紳などの封建的勢力 と、ヤング・チャイナとの血みどろな格闘を知っている。社会現象の最も大きな特色としての農村の破産と工商業の不振とを知っている。またその結果として中 国大多数の民衆が或は失業し、或は兵隊となり、或は職工となり、或は乞食となり、或は売春婦となっていることを知っている。それを綜合的に見るならば恰も 洪水の濁流が何処へとの目標もなく渦巻返しているようなものであろう。だが、そうした濁波の中を貫き、しかも、その濁波を時としてよりドス黒く掻き濁らす ものとしての「孝」をわれわれは見のがすことが出来ない。もっと適切にいうならば「形式化された孝」を見出す。恰も宗教が形式化されることによって強くな るように、中国の「孝」も形式化されたところに強味があり、その強味が新中国の一切の動きに、どれだけか影響している。

権威と金集めの手段

 今度の事変の前、例の宋哲元を首班とする冀察政権の初期に当って、同政権の要員の一人であった蕭振瀛が、その父母 の何歳かの誕生祝いを大々的にやったことがある、父母の誕生を祝うのであるから勿論孝行には違いない。しかしこの祝いをするということはまず社会的に、ま るで広告でもするかのように発表された。すると、彼の家には京津両地の名流、富商、役人等から、それぞれ莫大な祝いの品が届けられた。恐らく金額にして何 十万円かに達していただろう。当時、北寧鉄路の局長をしていた陳覚生は、祝いの席で来賓に供するための料理を寄贈したが、それだけでも何千円かに達してい る筈だ。
 われわれ日本人としては、かかる「孝」は、ちょっと考えられないけれど、中国では、これが普通なのである。形式化されたる「孝」の極地なので ある。「孝」は形式に止まって、事実は寧ろ蕭振瀛その人の権威の誇示であり、金集めの一手段となっているのである。当時わざわざ叮重に招待されたのを機会 に、見学かたがた出掛けたある日本の人は、帰って来ると「呆れたものだ」と舌を捲き、また当夜その門前を通りかかって盛大な自動車の行列を見た日本のある 閨秀作家もまた魂消たあまり、その印象を雑誌に寄稿していた。しかし中国の紳士社会では寧ろ交際の一機会を恵まれたものとして別に大して怪しみはしない。 料理を贈った陳覚生は、もうこの世にいないので、その時どんな気持だったか、直接聞くことは出来ないけれど、大方お義理を果すと同時に且また自己の交際の 力量を示す絶好のチャンスだったとして喜んだにちがいない。
 これは「孝」の今日の中国社会に及ぼす作用の、ほんの一例であるが、兎に角「孝」というものが、かように政治的に使える中国の社会、そしてま た「孝」をすらもなおかように政治的に使わんとするのが中国人であるということは、われわれが中国を観、中国人に接する上に先ず十分知っていなければなら ない肝要な点ではなかろうか?

非事務的な妥協方法

 五四運動以来、新中国が目ざした目標は、中国そのものを半植民地的な地位から解放するにある。この解放のために運 動はその鋒先を二つにした。一つは国内にある封建文化の妥当に向けられ、残る一つは排外という方面に擬せられた。今日の抗日も、かかる性質の排外の延長で あり、広揚である。中国は、かかる運動の中に漾蕩し、殊に今回の事変以来、まっ二つに引裂かれ、一つは長期抗日の陣営に糾合され、一つは日本軍による占領 地帯となった。しかも、この二つの地帯を通じ、月給に信頼出来るような事務的秩序の成立は当分望みなく、本来政治的な脳髄を持つ中国人は、自己の保存のた めには勿論のこと、その他の一切、たとえば日本をあしらうにも、日本と妥協するにも、依然として非事務的な方法、いいかえれば訓練された政治的方法による であろう。
 私はそれを思う時、日本人のあまりにも事務的に卓越しすぎた性格、従って政治的な手腕の欠乏せる性格を少からず心許なく思う。日本人は明治維 新以来、学校と役所と会社との事務的秩序ある社会の中に投げ込まれ、かつて各藩対立時代より維新後のある時期にかけて持っていたような頭脳の政治的鍛錬を 全く忘れていた。このことは期せずして今後の日支関係の種々相の一つを事務的頭脳と、政治的頭脳の闘争という形にしてしまいはしないだろうか?

(註)五四運動=一九一九年五月北京学生団は例の二十一ケ条問題及び日本の山東におけるドイツ利権護受に反対しパリに開催中の媾和会議支那代表の 活動に呼応して大示威運動を行った、問題の責任者時の交通総長曹汝霖邸は焼かれ駐日公使章宗祥は襲撃され暴動は上海まで波及したがこれが近代支那社会運動 の発端であり今次事変を惹起するに至った抗日思想はここに胚胎する、大示威暴動勃発の日が五月四日であったので五四運動といわれている

(4) 美点と欠点 (上) 生活至上、一切を忍ぶ 元来は無味無臭の民 村上知行

料理の三珍品に譬う

 中国人には、どういう美点があるか? どういう欠点があるか?
 こう、だしぬけに誰かから聞かれたとしても、私は唖然たるより外はない。中国人は手鼻をかむ、それが彼等の欠点です。中国人は料理が上手だ、そ れが彼等の美点です。まずこれくらいな返事なら私にも即座に出来る。手鼻がよくない習慣だとは、孫文が「三民主義」にちゃんと書いているし、支那料理には モリソンが、すっかり兜をぬいでいるので……。しかしこんな風俗、慣習の上の些細なものを捉え来って、よいの、悪いのと詮索してみたところで一体どんな御 利益があるだろう?
 われわれが仮りに遊廓でもひやかすんだったら、甲の女の鼻は端正だとか、乙の女の頸は歪んでるなどと月旦してみるのも万更面白くない訳ではな し、また時には荷風散人の「墨東綺譚」の一節にあるように「溝ッ蚊女郎」と罵って「芥溜野郎」とやりかえされるのも全然無意義ではない。しかし中国および 中国人に対し、われわれは最早そういう軽薄な「ひやかし」の態度をもって臨むことは出来ない筈である。してみれば、同じく中国人のよさ、悪さをほじくるに しても、他の角度からしなければならなくなるが、すると、私は忽ち礑と当惑させられてしまう。
 例の林語堂の漫筆に次のようなのがある。
「支那料理中、もっとも高価なものに欠くべからざる三つの特徴は、色なく、臭いなく、味のないことである。そういう食物は鱶の鰭、燕の巣、銀茸(白色のきくらげ)である。いずれも膠状をなして色なく、味なく、臭いがない。」
 中国人は、人として何となく、ここに列挙されている、支那料理の三つの珍品に髣髴している。色なく、味なく、臭いがないので、それが、どんなに 甜いか、どんなに辛いかと問われたところで返答は出来ない。利口ぶって返答する奴は決して利口であり得ない。鱶の鰭にしろ、燕の巣にしろ、銀茸にしろ、だ しによって味がつく。たとえば鱶の鰭なら、牛乳と味の素とで煮るというような塩梅にだ。中国人もまたそうである。

雇主次第で異る性格

 われわれが大陸で極めて普通に見かける現象は、西洋人の家庭に雇われている中国人が概して規律ある愛すべき人間だ のに反し、日本人の家庭にいるのは、ずるく、こすく、ひねくれていて油断がならない。つまりだしが違うのであろう。如何に上等な鱶の鰭でも、岩塩か何かで グタグタ煮たのでは三文の値打ちもない。
 以上は特殊な例であるが、更により一般的に見るならば、先ず中国人に味をつけるのは俗に大家族制度といわれるその特殊な家庭である。然して家庭の内容は何かといえば生活である。
 アメリカに住んでいる印度人の著作家は「インド人は宗教を有せず」といった。「宗教がインド人を有す」といった。私は今、この表現に倣って「中 国人は生活を有せず。生活が中国人を有す」というだろう。生活は、それほど一般中国人にとって絶対的なものである。ギリシア神話に出て来る一人物は忘憂樹 の実を食して一切の苦労を忘れた。Lotus-eaterというのがそれである。中国人は不幸にして忘憂樹の実を恵まれていないけれど、しかし生活すると いうことそれ自身がすでに彼等にとっては忘憂樹の実なのだ。換言すれば、生活するというその事の中に憂いを忘れるのである。否、一切の憂いが忍耐されるの である。

印度人と支那人の差

 インドのあるすぐれた梵学者の言葉に曰く「宇宙には変化と不変化との不断の交代がある。西洋は変化を代表し、東洋 は不変化を代表する。西洋は変化に対する信念を進化とか、終局の目標に向っての進歩とかいう言葉に翻訳した、自然西洋はある終局目標のために生きているの だ。だが、そうした終局目標とは一体何か?東洋は窮みなき週期性と節奏とを信ずる。故に生命そのものを目標とする」と。
 中国人もまた、そのようにある終局目標のために生きていない。矢張り生命そのものが目標である。だが、その仕方は印度人の場合と全然異なって いる。即ち印度人は現実の生命そのものの中に救いを求めて涅槃に到達した。しかるに中国人は同じ現実の生命そのものの中に生活を求めたのである。合致せざ る東洋の二大文化の基調がここにある。本来ならば私は今ここで中国の家族制度と、社会の経済的結構とについて一瞥しなければならないのであるが-何故なら ば中国人のよさも、悪さもそれ等を他所にして正確に理解することは出来ない-しかし煩を厭って一切割愛する。そしてだしぬけに大家族制度の家庭という枠の 中に嵌め込まれた彼等の生活とその生活を重んずることによって彼等が如何に味つけられたか?いいかえれば、如何なる美点と、如何なる弱点とが生じたかを述 べることにしよう。

(註)林語堂 一八九四年福建省に生る、米国ハーヴァード、ドイツのライプチヒ両大学に言語学を学び一九二三年帰国後北京大学に言語学、文学の教 鞭をとり一九三六年渡米今日に至る、軽妙な文章と洒脱なウイットで支那及び支那人の性格を語り支那では幽黙(ユーモア)大師と呼ばれ、名声は欧米の文化人 にも親しまれている、近著「新支那の誕生」はわが国でも翻訳され好評を拍している

(5) 美点と欠点 (中) “頑固”“忍耐”“寛大” 妥協は可能・屈服至難 村上知行

個人を抑圧する家庭

 中国の各個人にとって生活は絶対的なものであるように、中国の国家社会にとっては家族が絶対的である。何故なら、 それが家族を単位として成立っているからだ。かかる国家社会において家族の威厳が個人を抑圧するのは当然の成行きであり、殊に一つの家庭の中で親、子、 孫、親戚などが集団的に小さい一社会を形作りつつ生活していてみれば、なおさら個人の上には二重、三重の抑圧が加わるわけである。そうした抑圧の中で各個 人がそれぞれの生活を重んじて行こうとすれば当然「忍耐」を先決条件とする。家庭生活に忍耐が必要だということは、日本の男子には無造作に理解出来そう で、その実なかなか出来ない。何故なら日本の女性が全世界にその比を見ざるほど従順でありしおらしいからであり、お蔭で日本の男子は家庭において我儘のあ りったけを尽すことが出来る。つまり家庭では忍耐の必要から解放されているのだ。ところが中国では子供の時からして、まずそれを強制され一生涯それを続け て行かなければならない。

忍耐と頑固裏合せ

 「忍耐」という中国人の一つの美点がまず、こうして生れたが、但しその反面として「頑固」という中国人の素晴らしい 欠点もまた此処に萌していることを忘れてはならない。中国人と妥協することは出来るが、中国人を屈服させることはなかなか出来ない。清朝が中国に君臨した のは、征服したのでなく妥協したのである。なぜ妥協なら可能かというに、それはまた後に述べるような「寛大」というもう一つの美点があるからだ。
 中国人の「頑固」については次のような一口噺がある。
 ある男の所へ客が訪問した。主人は彼を歓待するつもりで息子に肉を買いにやった。息子が命ぜられた通り肉を買ってぶらさげて狭い一筋道を帰って くると、生憎と向うから見知らぬ男がやって来た。息子も、またやって来た男もどちらも道を譲ろうとせず、双方睨み合って立止っていると、そのうちに親父が 業を煮やしてわざわざやって来たが、この長期抵抗を見て「よし、おれが替って睨み合うから、お前これから帰って客に御馳走しろ」といったというのである。
 私はこの笑話の中に中国人の一面がよく現れていると思う。
 さて「忍耐」を必要とするような家庭に生きていれば、自然もう一つの「寛大」という美点が生れて来る。「寛大」でなければ「忍耐」は出来ない し、「忍耐」すれば自然「寛大」になる。この両者は恰も一筋の縄に綯られた藁のようなものである。林語堂は中国人の特性の一つを「無関心だ」といっている が、このいい方には多少制限がある。私はむしろ「寛大」というべきであり、無関心は「寛大」の中の一分子だと思う。

特徴あれば欠点寛容

 中国人の「寛大」を証明する実例は甚だ多い。今から十数年前に中国を旅行した私の一友人が、天津から奉天へ行く汽 車の中で、日本語を話す一中国人と打ち解けて口を利くようになっただんだん話しているうちに、その中国人は天津のある商店の主人でそこに使っていた日本人 の店員が数千円を拐帯して奉天へ逃げ出したので捕まえに行くのだとわかった。私の友人は流石に顔を赤くしながら「怪しからん奴で、申し訳ないけれど、しか し私も同胞の一人がみすみす監獄に入れられなければならぬと思うと好い心持はしない。何とか許してやっては貰えまいか」と頼んだものだ。すると、相手の中 国人は驚いた顔をしながら「いや、監獄へ入れるなど滅相もない。実は、あの人は私の店に十年間勤めていましたが今までただの一度も落度がありませんたまた ま今度僅な金でみすみすあんな男を逃がしてしまうのは惜しいので実は迎えに参るのです。」と返事した。今度は私の友人の方が驚いて開いた口が閉がらなかっ たという。
 中国人は他人の何処かに採るべき特徴があれば、他に如何なる欠点があっても棄てるということをしない。それは単なる「寛大とか」美点」とかい うよりも寧ろ「美徳」である。清末、摂政王の暗殺を企てて捕縛された汪兆銘が、摂政王から「見所ある青年」と睨まれて死刑を赦されたのなど、もっとも顕著 な実例ではないか。

「寛大」堕落し「無関心」

 だがこの美徳としての「寛大」は極めて無造作に「人の事は構うな」という「無関心」もしくは「うっちゃり放 し」になり、往々にして中国人の社会道徳を疑わしめることになる。日常生活において最も頻繁に中国人の口の端にのぼる言葉は「別管!」という言葉だ。構う なとか、抛っとけという、詰まり干渉を退ける言葉であるが、この言葉の持つ勢力たるや恐るべきものがある。

各掃自己門前雪
休管他人瓦上霜
(めいめい自家の門前の雪を掃らえ。他人の屋根の霜などに構うな)

という最もポピュラーな中国の諺は、そうした中国人の欠点をまざまざと現したもので、彼等の「寛大」を、かような徳義心なき「無関心」にまで堕落せしめたのは過去の法外もない虐政の影響だといわなければならぬ。

註 汪兆銘の摂政王暗殺事件は当時の革命家にとって腐蝕し切った清朝を打倒することが最大唯一の目標であったので日本留学中孫文の門下として中国 同盟会にあった汪兆銘は一九一一年(二十六歳)単身北京に乗込んで摂政王戴●に爆弾を投じて暗殺を図った然し遂に失敗に終り死刑の宣告を受くるに至った が、摂政王は彼の鬼才を惜しんだ死一等を減じて監禁した、後第一革命が成功して釈放せられた

(6) 美点と欠点 (下) 掴み難い鰌的特性 短気禁物・誠意で導け 村上知行

「沈著」変じて「遅鈍」

 「忍耐」「寛大」この二つの美点は自然さらにもう一つの美点「沈著」を生み出した。中国の少年は日本の少年に 比し、あどけなさにおいて欠けているけれど、そのかわり心憎いほど落著いている。子供の時から複雑な家族関係の網のなかに投げ込まれ、忍耐と交際術との訓 練を受けるので自然そうなるのだ。だが、この「沈著」も勿論、一転するなれば直ちに「不機敏」即ち「遅鈍」という新世紀に凡そふさわしくない欠点となり、 特にせっかちな日本人をしてつい「馬鹿野郎!」を怒鳴らしめる。私は勿論、日本人であるから日本人が「馬鹿野郎」と怒鳴る気持は十分解る。しかし、いくら そう怒鳴られたって相手は泰山のように沈著なのだ。決して怒鳴り甲斐のあろう筈もないので、どうも馬鹿な怒鳴り方だと思う。

安居楽業は「知足」

 それから、もう一つ「知足」即ち足るを知るという美点が中国人にある。これも勿論、前のいろんな特性と絡みあったもので、この「知足」ということが中国では実践道徳として哲学的にまで高められているものだ。
 唐の玄宗の時代の大政治家だった陸象先は「天下はもと無事、但だ庸人これを擾すのみ」という有名な警句を吐いているが、この庸人というのは、つ まり「知足」を解せぬ人間……足るを知らざる人間のことである。生活を絶対的な目標としている中国人にとってのユートピアは「安居楽業」、即ち居に安んじ て業を楽しむというにあるが、かかるユートピアの基調は外ならぬ「知足」である。しかして「知足」が堕した場合、「不進歩的」になることは、ここに今さら 説明する必要もあるまい。

狡さならぬ政治性

 さて忍耐、寛大、沈著、知足、この四つの美点と認めらるべき特性を根幹として、中国人全体の大きな特徴が成長している。外でもない、政治的なることだ。同時にまた政治的なる反面には、事務的にゼロである。ここに中国人の最大の長所と最大の欠陥とがある。
 複雑な家族、その家族を基礎とした複雑なる社会国家に処して行くためには、到底事務的では駄目である。政治的であってのみ初めて生きて行ける。 鰌はあの通り細長く、ずるずるしていればこそ泥の中をもぐって行ける。もし蟹のように角ばかり立っていては、あの芸当はむずかしい。事務的というのは、兎 に角片ッ端しから始末をつけ決著をつけて行くことで蟹の角々しきに似ているが、中国人の政治的なのは鰌式だ。加うるに中国人は前から度々いう通り事業より も生活を重んずる。しかして事業にとっては事務的なることが必要だが、生活にとってはむしろ政治的である事が肝腎だ。そういう意味からいっても、ますます 彼等は政治的になされて行った。林語堂は「外に然るべき適当な言葉がないので……」と断って中国人の特色の一つをold rogueryと呼んでいる。日 本語訳では「狡猾」となっているが、しかし、これは全く適当ならぬ表現であってむしろ私の「政治的」の方がましだろうとおもう。

邦人の心得べき事

 さて私は中国人の美点、欠点の顕著なものだけについて一わたり瞥見したつもりなので、これで擱筆するが、最後に左の一節を加えて置こう。
 中国に文盲が多いということは私からいうまでもない周知の事実であるが、いかに文盲でも、この家族制度と、この変転極まりない不穏な社会に住む 以上、政治的な頭脳だけは発達している。そこで知識あり、事務的であり、気短かなわれわれ日本人が、もし文盲であり、政治的であり、加うるに忍耐であると ころの中国人と何かを交渉しなければならない場合があったとすれば-知識ある中国人に対しては、勿論おのずから別であるけれど-全く悲惨であり手のつけよ うがない。それを手のつけようあらしめるのは大なる「誠意」のみであろう。
=村上知行氏の稿終り=

(7) 民族性論 A 一面的な各人各説 南北の違いも根本帰一 小竹文夫

二十六の特性を摘出

 凡そ一民族の文化とか民族性を論ずるということは随分むずかしいことである。殊に支那のような尨大複雑な民族の性 格を取上げることはなおさら困難である。有名なリヒトホーヘンは地域的に異なる支那各地の支那人性格を述べつつ最後に統一的なる支那民族性を摘出すること は殆ど不可能に思われるといっている。西洋人の支那民族性論で最も有名なのはスミスの「支那国民性論」で、かなり大部の著述であるが支那人は面子を重ん じ、節倹で、勤勉で、礼儀正しいが、不正確で、虚言をいい、公共心が無く、保守的であり、忍耐心強く、親孝行で慈善心に厚いが、同時に頗る無情であり、猜 疑心深く、信用のおけぬ性格を有っているなど二十六の特性を挙げている
 この種の支那民族性論は西洋人にも日本人にも沢山あり、或は支那人は利害打算性を有つとか、平和性を有つとか、或は不潔性があり、惨忍性があ るとか、曰く、支那人は形式を重んじ文学を愛好するとか、曰く、支那人は虚言をつき公徳を無視するとか、或は忍耐性を有し無感動性を有する等、スミスのそ れとほぼ大同小異の性格が挙げられている。これ等の民族性論も強ち根拠のない訳ではなく多少とも、そういう傾向を有っていることは認めらるるが、反証を挙 げようと思えば随分反対事実もあり、果して普遍的支那民族性の特徴であるか、どうか、なお疑問の節がある。

個人的傾向の錯覚

 思うに、この種の民族性論は、これ等の人が見聞した支那人の個人的心理傾向をもって直ちに支那の民族性なりとしたも のであった或る地方の支那人が虚言性を有っていても、他の地方のものが正直性を有つというような地域的な相違がある場合もあり、また下層の支那人は随分勤 勉であっても、上層のものは随分怠惰であるというような社会的相違がある場合もあり、単なる個人的心理傾向の羅列では、そのまま支那民族の性格を表現した といえぬ。

地理的環境の結論

 しかし支那民族性には普遍的なものがなく地域的に、社会的に全く異なっているという論にも賛成出来ぬ。支那民族性の 地域的相違を説くは先のリヒトホーヘンのほかハンティントンなどがある。ハンティントンは南北支那の支那人性格を、その地理的環境から理由づけ、北支那人 は鈍重にして保守的であるに、南支那人は怜悧にして進取的であるなどと幾多地域的に分れている支那人の性格について述べている。南北支那人には確に一般的 に見てかかる特徴はあるようであるが、しかし日本でも関東人と関西人とでは大分性格が違うように見え、九州人と東北人ともまた大分相違がある。それゆえに 日本民族性は地域的に幾多に分裂しているということは出来ず、それ等の相違にも拘らず、それ等に超越してなお日本人的性格が存在していることは確である。 同様に支那人も南方人と北方人とにかかわりなく、なおそれを超越し支那的性格が存在すべきこと、言語が異っても使用する文字が同一であり、婚葬等の風習も ほぼ同様なことでもわかる。

上下階級隔絶論

 社会的に支那民族性が分裂しているという論の代表的なものは、支那の社会には全然異った二つの階級が存在し、これ等は 互に何等の聯繋もなく同情もないものである。いわゆる上層の少数支配政治階級と下層の大衆被支配階級がこれであって、それぞれの間に起ったイデオロギーも 全く相反したものであるという論である。かかる階級対立的観方はマルクシズムが入って以来、支那青年の間にも随分多い。
 思うに一つの支那という同じ自然の中に呼吸し社会を立てている民族の間に全く同情なき相反した階級が、果して存在し得るものであろうか。支那 人は上層と下層とに論なく矢張り同じような支那人ではなかろうか。このことは階級の存在を否定するものではなくて支那人は支那人として、ほぼ同様の性格を 有ち、ほぼ同様のことを考えてはおらぬかという意味である。よく支那における階級隔絶の例として引かるる高級な美術骨董の存在についても、例えば上等の端 渓硯を使いたいという願望は、単に上層階級のみに限らぬのである。中層は上等品は及び難いから下等品を、その下の階級は下等品も手に入らぬから、せめてそ の偽物でもと考える。支那社会に偽物が多いのは必ずしも人を欺くためのみではなくて、実にかかる社会的需要からなのである。下層が偽物でも有つということ は上層が真物を有つということと志向において変りはなく、この意味において上層も下層も感情を同じくし決して関りなき対立を示しているのではない。それゆ え一瞥して社会的に分れて見ゆる如き外面の性格を超越して、なお一様なる支那的民族性が存在していることは確である
 階級隔絶論からは、排日をやったのは上層支配階級であって、下層は何等これに関りなきものということにもなるが、果して一般民衆と関りなきものであろうか。

小竹文夫氏

金沢市の生れ、上海東亜同文書院卒業後、同校助教授となったが更に京都帝大に入り東洋史を専攻し、昭和三年同文書院教授に任 命された、同氏は支那問題に青春を埋めて来た学徒であり、特に骨と血で支那と支那人を観察し、所謂机上学と理窟だけをこねる流儀の連中とは違って広汎且つ 現実的な支那問題の権威である、そして氏は日本における「実験的支那問題の最高学府」同文書院の教授として、各方面に活躍する大陸人材の養材につくすこと すでに十有余年に及んでいる、氏の専攻は東洋史、東洋思想、支那外交史であるが、深い体験と長き研究と、支那問題研究の視野の広さによって氏の「支那及び 支那人」観には期待すべきものが多かろう

[写真あり 省略]

(8) 民族性論 B 現世実利本位の思想 儒教・道教に見る性格 小竹文夫

全歴史の中に表現

 個人的心理傾向から民族性を見出すことも十分透徹した観察からは勿論可能であろう。しかし、それには余程注意を要す る。支那人には打算性と合理性があるということは従来の支那民族性を論ずる人から多くいわれたところであるがそれで支那人の行動が凡て律し得られるかに私 は従前から疑問をもっていたものである。今度の事変で支那の焦土抗戦など、或る意味において歴史に曽てない非打算的非合理的な行動であるともいえる。
 私は民族の性格なるものはその民族が過去に作った全歴史それ自身の中に表現せられているものに外ならぬと思うものであるから、民族性の研究は、もっと広い観点の上に立ちその民族が作った一切の文化について観照すべきものと考えている。
 この立場からなされた支那民族性論も少数ながらすでに存在する。マックスウェーバー氏の宗教社会学論叢の「儒学と道教」に見えたる支那民族性論 のごときこれである。氏は支那文化の内でも最も支那に特徴的なる文化を採り、これを通じて支那民族性を捉えんと試み、その最も特徴的なる文化を思想上の儒 教と道教なりとして次ぎのごとく説いている。

儒教と道教の解剖

 即ち儒教は宗教思想として完全に現世教であり、その祭祀は祖先の幸福のためでもまた自己来世の運命のためでもなく、 単に自己現世の運命のために行われるものである。その説く倫理も世俗道徳であって世界への適応、人間的作法にほかならぬ。人性を善とし原罪を認めず、罪は 社会の根本義務たる孝に反することのみ、そしてそれは全く教養の不足からの過ちとする。また解脱の思想なく、もしありとすれば社会的粗野からの解脱のみ。 それゆえ最高の人間たらんとするには教養と礼とが要求され、このためには知、即ち読書が必要であった。ここにおいて君子の事とすべきは独創に非ず温古で あったと。
 道教は神秘的にして長寿のために隠遁生活を高調し虚無、恬淡、無為を旨とし礼を無価値とするなどの点、儒教と大分異なるようであるが、その 実、終局目的においては甚だ接近しており、特に現世教、殊に長寿を求める点において道教は儒教より更に急進的であり、道の観念、人性を善とすることは両者 に共通している。ただ道教では魔術を積極的に用い遂には不老不死術、風水術、占星術等を作ったが、畢竟するに道教は儒教を離れて独立したものに非ず、全く 儒教の協調に外ならないと。
 要するに救済教ではなくて現世教であり、更に世俗道徳であった儒教と、その魔術的強調たる道教とに見られるところのものが支那民族性の根本であって、これから諸種の派生的性格が生じたと見ているようである。

津田博士の所論

 日本の津田博士もまたほぼ同様な立場から「道家の思想とその展開」で支那民族性を論じておられる。
 曰く-道家は形名を棄て無為をいうもその無為は真に無為を尚ぶには非ずして天下を治めるがためわが事をなすがための方便に過ぎず、いわば処世術 である。虚無恬淡は本来情意ある人生を情意なき自然として観じるのであるが、枯淡死灰の生活とはなり得ぬから、生物としての生活、即ち肉体のみの生活とな る。蓋し道家は罪悪をすべて智巧と欲望とから出るものとしたため、無智無欲を讃美し、智巧と欲望とが必然的に罪悪を生むとの誤謬を犯したものである。要す るに形名を棄て虚無恬淡というも終局において利己主義、独善主義であり、実用主義、或は実利主義に外ならぬと。
 しかして、氏はこれに付加して道家を囲繞する思想として儒家その他を挙げているが、儒家は道家の形を棄て実利を収むるに対し外形、名義、矯飾 を事とするもので、この二家は思想界の二大潮流として並び行われているわけであるが、根本はいうまでも無く実利主義であるから、道家の思想は、この意味に おいて支那人の思想の最も本質的なるものであると。

実生活と関聯観察

 また氏は思想を単に思想のみとして見ず、これを支那人の実生活と関聯して観察されるのであるがその支那人の実生活も実用主義であり肉欲本位、現実本位であるとする。
 かくて実際的処世術たる道家の思想が、かかる支那人の間に発生し歓迎せられたのは当然で、一般の思想界もまた甚だしく道家風である。これ等を一貫するものは実用主義或は実利主義で、これが支那の民族性とも見るべきものであるとされる如くである。
 これ等の民族性論は誠に支那に特徴的なる民族性の一と考えられるが、しかし、これではあまりに抽象に過ぎるのみならず、なお政治とか、経済とか、文学、芸術等他の文化現象からの探求も行われねばならぬと思う。

(9) 民族性論 C 強制は上下とも嫌い 放埒極る自由さ、安易さ 小竹文夫

無秩序的な秩序

 極く大雑把に支那の政治を考えて見る。-普通によく支那の社会は無秩序、混乱の社会であり、政治は賄賂公行して紊乱そ の極に達し、支配者は常に飽くなき搾取を行って人民は恰も奴隷の如く、その惨虐に蹂躪されている如くいわれる。勿論、支那の政治が良いとはいわないが、し かし単純に考えられた程実際に無秩序でもなければ、況して人民が奴隷の如く扱われている訳では決してなかった。
 この八、九百年来、即ち宋代以来の支那は形式的には専制政治の社会であったが実際には直接人民に何等専制的支配を行うことが出来なかった。官 吏も租税取立と裁判以外は何等政治というものを行わなかった。この無為政治を美名で呼んだのが徳治政治である。しかも、その租税たるや決して高率のもので はなく、その民度と比較しても寧ろ世界で最も低率な方であった。支那で最も高税の地方として昔から知られているのは江蘇の蘇州、松江地方で明清時代この眇 たる二府の税額が糧において天下の約八分の一、銀において約十五分の一を占めたほどの所である。それで、この地方の学者たる顧炎武初め歴代ここに官たるも ので蘇松の減税を奏請しないものはなく「かくの如き重賦にては蘇松の民悉く逃亡し期年ならずして荒廃に帰するであろう」などというのがいずれもの結論であ る。これに対し朝廷は一向減税をしないのに荒廃どころか年と共に愈々繁栄したのが実情である。かほどの重税地においてさえ果して真に苛斂誅求の名に値した のか否やを疑うくらいである。

奴隷なき自由の民

 官吏の地位なども平民に開放されていた。宋代以来は支那に世襲的特権貴族というものがなく社会には天子と平民とだけ であったから、天子は科学の試験をもって官吏を平民の内から抜擢したのである。官吏にならない一般庶民も議会の如き特別の参政機関があった訳でないが、自 ら民の与論があり専制君主も、これに聞かねばならなかった。憲法で保障された訳でないが、人民の私有権も認められ労働も自由であった。それゆえ人民は決し て奴隷ではなく、却って随分権利の認められた自由の民であった。政治はしないが官吏が威張り、中飽(賄賂)も相当行われたがこれも慣れれば一種の免疫性が でき自ら秩序と落著きがあった。
 かくて支那の政治や社会は支那民族にとって人間が住みやすいような安易ささえあったのである。それでこそ世界百数十の民族のうち殆ど一つの支那民族が四分の一近い程にまで繁殖したのである。
 これを簡単に支那民衆は政府から搾取され、奴隷にされているのだから誰かが、この支配階級を追払えば民衆は忽ち随喜して、これを迎うなどと考えたら間違いである。

支那被支配の限度

 ここで、この支那社会の一種の安易さを吟味せねばならぬ。専制政治の形式であって専制の支配が行えず、更に政治その ものが行えなかったのは何故であろうか。思うに支配し得るのは、人民がその支配に服するからであって支配に服するを好まぬ人間は容易に支配し得るものでな い。踊りたくない者は如何に笛吹けど踊らすことが出来ないのである。支那で政治が行えなかったのは、人民が支配されるのを好まなかったと解するの外なく、 支配することが出来ないから徳治ということにもならざるを得ない。従って租税が安いのは恩恵をもって安くしているのではなく、如何に取立てようとしても人 民が凡ゆる方法、口実を設けて負担を肯んぜぬからである。所得税が徴収出来ぬのも、このためであった。しかも国家が定めたその安い租税定額でも人民は用意 に払わず、二、三度の催促で集まるものでない。清朝時代官吏考成例とて地方官の成績考査法があり、定額の七掛を取立てたなら上考、即ち優良、六掛が中考、 五掛以下が下考で、下考が続けば降級もしくは免職になるのであった。租税の未納も多く、清朝時代に未納十年に及べば、やむなく●免(租税賦役の類を免除す ることをいう)とて免除した。従って租税の額も多きを得ず、強いて高税を取立てようとすれば叛乱になり王朝の滅亡になる。税額が少いから、そのためにも政 治を行うことが出来ぬ。

双方満足したわけ

 租税ばかりでなく、その他国家が命じた義務は凡てこれを避けようとする。それゆえ支配階級も政治に興味を失い専ら自 己の個人的趣味的生活にでも浸る外ない。否その支配階級自身が異民族統治の時は別として、実は人民と同じくもともと支配することを好まぬのである。支配さ れることを好まぬ民族はまた支配することをも好まぬ民族なのである。租税は軍隊を養う外は専ら支配階級自身の趣味的享楽的生活に使用される。
 取立てる額が比較的少くとも、再びそれが人民に還らぬのだからこの意味において搾取ということが出来、搾取だから人民は常に不平を鳴らして実は少額の搾取に甘んじ、政治をせぬ支配階級は自己の享楽費としては相当高額であるからまたこれに満足する。
 かの支那社会の安易さ、自由さの正体は、かくの如きもので、それは真の安易自由さではなく誠に放埒な安易さ、放縦なる自由さなのである。

(10) 民族性論 D 心せよ・麻酔的同化力 警戒しつつ滅びし清朝 小竹文夫

 支那の民族性を一団の支那民族と、他民族との接触の 方面から見ることも興味あることである。接触の場合は種々あるが最も代表的なものは、外民族が支那に入り込んで、これと政治的支配、被支配の関係を作った 場合である。歴史上では南北朝の北魏とか宋代の金それから元、清等がこれである。

北魏と元との場合

 このうち北魏と元とは被支配民族たる支那民族に対して採った態度が全く対蹠をなしていた。北魏は自ら率先して固有の 胡語、胡服胡姓を棄て専ら漢化することに努めたに反し、蒙古族たる元は極端なる支那民族軽蔑の態度を採り、殊に南人、即ち南支人に対して甚だしかった。官 吏なども南人は一切採用せず、北人も僅に蒙古、色目の次に微官に採用するくらいであった。儒者、即ち支那の学者等も随分軽蔑せられ当時数え唄で八娼九儒十 丐というのがあり、儒は娼の次、漸く最後の丐の上に置かれる位であった。
 それゆえ北魏は瞬く間に支那民族に同化して仕舞い固有の風を全く忘れた支那人になって仕舞ったが、元は最後まで固有の風俗も性格も大体に失うことがなかった。尤も元はなるべく支那民族と直接の接触を嫌い支那に入り込んだ数も比較的少数であった。

註・八娼九儒十丐 儒者を軽蔑した言葉で、職業別に順位をつけるとまあ八番目に娼婦、その次の九番目が儒者、最後の十番目が丐食(乞食)ということである日本にある言葉でいうと「士、農、工、商、伯楽、医者、坊主」というようなたとえ方である

満洲族も骨抜き

 これに対し満洲族たる清の命運は歴史も新らしく最も面白い。清は金と同じく旧女真族で女真族は由来精悍をもって聞え、支那でも女真、万に充たば天下敵する無しとの諺があったほどである。
 清朝も入関当時は相当精悍で、それゆえにこそ少数民族がよく大漢族を抑えたのであるが、少しく歳月を経るに従って次第に精悍さが無くなり文弱な 支那風になって来た。唐熙帝、乾隆帝は、これを憂えて漢人との通婚を禁じたのみならず、満人には必ず騎馬、射弓を行わしめ固有の風を失わざらしめんことを 勧めたのである。それにも拘らず乾隆半頃にはすでに余ほど漢化し、その末年には、どこにも昔の精悍な祖父の俤を偲ぶことが出来ぬほどになって仕舞った。

特徴・誘惑的麻酔性

 次の嘉慶帝の時に白連教の乱が起ったが八旗の兵(清朝の旗本ともいうべき兵)は最早役に立たず、更に道光時代の鴉 片戦争や或豊時代の英仏聯合軍の役は別としても道光末年から起った長髪賊の乱には完全に八旗の柔弱が暴露せられ祖国藩や李鴻章は郷里に湘勇淮勇を募集訓練 せねばならなかった有様である。清朝は兵力上この時滅びたといっても差支ない。実際に清朝が滅びる時、満漢人の区別は漸くその姓名で判断せねばならぬほど 漢化していた。
 政治的に支配されつつ、民族的に滅ぼしたこの民族的力は、誠に支那民族性の一特徴といわねばならぬ。この力は一体どこから出るか。今日、赤裸 々の人間として最も強いのはユダヤ人と支那人だといわれ、かれ等の行くところ、政治力も軍事力も伴わずして到るところ繁栄を見ざるは無い。
 これ素よりかれ等の有つ忍耐、勤勉、節倹、利己、狡猾、打算等の性質にもよることであろうが、なお更に最も注意すべきことがある。それはかれ等の有つ一種の誘惑的麻酔性ともいうべきものである。

誰にも出来ぬ芸当

 先に述べた如く支配されるを好まぬ民族は、政治によって自己を保存する等のことは考えず自己保存は専ら自己自身にて 始末する。自分で自分を始末するためには、そう、ぼんやりしている訳にゆかぬ。ここに国家に対して無感動な支那人の自己保存に対して鋭敏な性質も出てく る。打算的な点も出て来ようし、また卑屈感も薄れてくるだろう。大きな利益のためには賄賂を使うことも罪悪ではなく、賄賂を使う人間はまた賄賂を取る人間 ともなる。他の民族なら敢てせぬような卑屈なサービスでも支那人は平気でする。
 そこで権力なる金力の存在するところに向っては、あらゆる誘惑的麻酔的サービスが行われる。支那で官吏は升官発財で金力権力の多く集中すると ころであるから、彼等の手がここに差延べられる。清朝の官吏など実に享楽的生活を営んだが、かかる上流階級の少翁(坊ちゃん)の生活を描写した傑作が紅楼 夢である。これ上流自身の遊蕩心からでもあるが、一つにはまた一般のものが、そうさせたのでもあった。満洲族は、一はこの誘惑作用で滅びたのである。

註・升官発財 官吏が出世すれば御金が出来るということである、支那の金持は軍人とか官吏の出であり、県知事になると親戚一党が喰って行けるといわれるほどで官吏で地位が高くなればなるほど大金持になったものである

民族性を焼き直せ

 今や東亜新秩序の建設に当り日本民族の支那民族との接触いよいよ多きを加うるに当り、感動的にして正直な日本民族に とり、最も恐るべきは支那軍でもなければ民衆の反抗でもない。実に支那民族が有つこの誘惑的麻酔作用であると思う。これに打勝たなければ、嘗ての満洲族と 運命を一にし今次如何に絶大の戦捷も、新秩序建設の理想も空しく水泡に帰することとなろう。しかして、これに打勝ち、これを逃るるには日本民族がよくこれ を銘記して勇猛心を奮起すると共に積極的に現在より支那民族性自身の改造に向って心を傾けねばならぬと思う。
=小竹氏の項終り=

註・紅楼夢 清朝小説の白眉で今なお盛んに読まれるものである、作者は清の雍正、乾隆時代の学人曹雪芹といわれている、モデルになった人物が満洲 王朝の人々であり、その内容が軟文学の代表的なもので、原著の補補、後日物語りという風に尨大なものとなっており、これが研究のため「紅楼夢文学」なるも のが起ったくらいである、演戯に、絵画に彫刻に流行に、あらゆる模様等々に至るまで影響を与え、一般会話にまで及んだ、この物語りの感化は年少の元気を沮 喪せしめ一時は紅楼夢亡国論さえ起った

(11) 共産主義と民族性A 量は飛躍、質はガタ落 支那化に見る非組織性 藤井晋三郎

共産党の応変性

 支那に共産主義は浸潤し得ない。支那の民族性と共産主義とは本質的に相容れないからである-との見解は、多くの「支那 論者」の間に抱かれている。現にこの事変のさ中にあって、中国共産党の観察を自分の業務上の一重要事項とする人々の間にさえも、この見解はなかなか堅固な 根を卸しているし、いわゆる支那通の諸氏に至っては、その大多数が、こういう本質論的見解に立っているように見える。然るに、それに対して極めて明快な反 撃が投げられている。曰く、民族性と共産主義との本質的関係なんか、中国共産党にとって問題にならない。共産主義の方で相手に適合するようにサッサと自分 の性格を修正してかかるからだと。そんな修正が可能か、不可能かという議論になれば、それはもう共産主義の性格論の範囲であって支那民族の性格論ではなく なる。当人の共産主義の側で、出来るんだといえば他人が反対すべき筋あいではない。その性格修正が現実的政策として効果を収め得たかどうかは別の問題であ るが、支那に共産主義が密輸入せられて以来約二十年の間に、中国共産党は数度の大転換をやっている。この転換の中には行動要件の上の機械的なものもあるが 相当に深刻な性格修正の含まれたものもある。それによって共産主義の支那化過程が重ねられて来たことは事実である。中国共産党にとっての最も大きな苦労の ポイントは、ここにあったと思われる。

現実過程を基調

 共産主義がウラル山脈あたりに足踏みしていた時代ならば兎も角、既往の十何年来、中共といえばすでに政治的な、社会的 な現実の勢力となって支那社会の内部に飛沫をあげている時代に、本質論的方法によって支那と共産主義との因縁を詮議立てすることは少々遊戯すぎる。これは どうしても問題の焦点を現実過程の批判に移さなければならぬ時である。共産主義との関係対比によって支那民族の性格を吟味するためにも、共産主義の支那化 的修正の跡を分析して修正の要件とせられ、指標とせられたものは何であったかを描き出すと共に、それが支那の社会との間に如何に融合し、如何に反撥したか を把握することによって考察の基調を求めなければならぬ。

事変下中共の量剋質

 共産党の御本尊の国で、靴の生産量を二倍に拡大したら出来た靴の耐久力が丁度二分の一であったという話。如何にも 共産主義らしくて愉快な話である。それほどではないにしても量剋質の理法は事変以来の中国共産党を支配している。即ち事変の激浪に乗じて中共は眼覚ましい 量的発展を遂げた。直接間接の支配地区の面積や影響下に置かれたと見えた民衆の数は十倍にも、それ以上にも達した。しかし、その質は量的発展に比例してガ タ落ちした。これは少しでも現在の共産党の実態を観察する限り誰でも気のつく所であるが、この事実、量的に発展して質的に低下したという事実がすでに種々 の角度において支那民族の性格に触れた問題である。

近代的組織に不適

 第一に支那民族の性格には、近代的意味においての組織を構成し運営する性能が窮乏していることが、先ずここに示され ている。素より事変の混乱に乗じて史上稀有の火事泥をやった中共である。量的拡大にのみ全力を傾倒して質的用意を並行せしめる暇の無い事情は認められる。 それにしても量の拡大それ自体が質的強化を伴うて行く自然作用も考えられる。それであって、かくも明快に質的低下をやってしまったことは、この民族が近代 的な組織に甚だ適しないものを持つことを表示している。このことはすでに労働組合運動によってもよく示されている。いわゆるその工人運動が排日運動などと の合作によって熱病的旺盛を告げた時代においても、他の国民におけるが如き近代的労働組合の組織は遂に生れ得なかった。形式の上でこそ宣言あり、綱領あ り、規約、機関皆整い、何部長、何股長とチャンと完成している。しかし実体は全く個人的面子や因縁による顔の配列である。全体の平メムバーに至ってはあし たに集まり夕に散ずる烏合の衆である。それであって音頭取りの策動や学生などのスピーカーが巧妙に動けばあれだけのストライキもやれば、街頭デモもやって 来た。賃銀労働者の相当長期にわたった意識的行動さえ、遂に組織を結成し得なかったという、この近代的意味においての非組織性、それが中国共産党の現在の 好況状態の下にも如実に示されているのである。尤もその事が中国共産党今後の強味であるか、弱味であるかとの問題はまたおのずから別である。

藤井晋三郎氏

氏は久しく支那共産党の研究に没頭い、とくに支那事変下の共産党、軍の活動を眺め、わが軍占領下の民衆と共産軍活動に対し て種々の対策を考究している人である。支那事変進行につれ、支那共産党の問題と、これに対して支那民族が如何なる関係に立つかを知ることは日本国民にとっ て重大なる任務であろう。藤井氏の小論は共産党の実際的作業を透して支那民族と民衆を語るに最も適当なるものである。

(12) 共産主義と民族性B 皮を剥げば私的結合 国民党中央部も御同様 藤井晋三郎

偽装の民衆組織

 共産主義も、共産思想も西洋からの輸入物であるだけに、如何に支那化しても西洋流の組織形態を尊重することを、今日ま では忘れなかった。民衆を組織することが、党の行動の第一歩であるなどと十二、三の子供にまで言わしている。しかし、こえが全く形式倒れの意識的偽装工作 である。抗日救国会と来る、抗日婦女会と来る少年先鋒隊と来る。そういう看板や会旗が一度共産党の息のかかった地区には、例外なしに作られることは事実で ある。ところが、それが原則として見せかけだけであって、村々に抗日婦女会の看板が掛けられる時には、三人や五人の「幹部」はいる。これは共産軍の手で 「作られた」特殊人であって民衆自体の間から自然に生れたものではない。そして、その幹部のみが何々会の全部である。それで凡そ村中の女の数を婦女会々員 の数として発表し宣伝する。これが最近拡大した新地区においての原則的方法である。それをガリ版刷りの報告書や統計で見ると如何にも深刻に民衆の中に喰い 込んでいるとしか思われない。そこで民衆は共産化した。党軍の指揮下に組織せられたという批判が生れるのである。しかし、ここではそのインチキ性を指摘す ることが目的ではない、この経過の中に示された民族性の上の反組織性を考えたいのである。この事は単に、こえを一般民衆の素質としていうのみではなくすで に出来上った党自身についても、党から送られて端末地区の民衆獲得を任務とするオルガナイザーについても同様にいい得るのである。あれほどの大掛りな世帯 を作り上げ、兎も角も中華民国の一半の勢力を構成した中国共産党として、その組織の性能は分不相応に貧弱であることが上述の質的低下の経過によって表示せ られている。組織より滲み出る、この一面の機能が窮乏していることは何としても中共が現在踏みつつある過程の主要々因である。従って、その幹部的党員であ るべき派遣オルガナイザー級もまた、個々の性能の上に、この一面が著しく欠如していると考えられる。

特殊の自然的組織

 かくいうに対して有力なる反対意見が提示せられると思う。即ち紅槍会の如き、青幇の如き、あの強靭な結合は支那民族 の組織性を物語っているのではないかと。まことに、その通りである。そこに実に問題の実体がある。私の見る反組織性は得に局限してあるが如く「近代的な意 味」においての組織に関してである。紅槍会的組織とは本質を異にする。組織の発生過程も、組織の基調をなすすべての素因も全く別のものである。その精細な る論究をここでやってはおれないが、紅槍会的組織が非常に自然味の豊かなものであり、いわば生物学的要件によって作られているものであることは確である。 それに対して近代的なる組織は理智や批判による目的意識に基くものである。こういう本質的な差異がある。そして支那民衆が自然的な組織に紐結せられている ことが近代的な組織を受け容れない原因の最も重要なものである。ここに民族の個性と、支那社会の特色の一つが認められなければならない。社会学の単純な理 法が教えているが如く、一つの結合が強力であるほど、その成員の個々を別の統合に参加し難からしむる。この理法というか、事情というか、支那民族をして反 組織的ならしめている鉄則が、労働組合運動に組織を持たしめない、株式会社の構成を不振ならしめる、合作社運動を表面の華やかさに反し内容の空疎なものた らしめる。カトリック教が、あれだけの活動を続けているに拘らず個々の信者を深く捉えるのみで信者の宗教団体たらしめ得ない。その他等、々、々。近代的な 意味においての組織は遂に支那の社会に生れ得ておらない。中国共産党も意識しているかいないかは別として、この民族性的特質に行き当ってしまったのであ る。しかも同一の課題を国民党も背負っている国民党が、これまた、支那史上に先例なき国民的背景の前に立っていると一応認められているにかかわらず、民衆 の中には何の組織も持っていないというてよい。民衆の中にのみではない、国民党の中央部が、実は近代的な意味での組織としては非常に条件の欠けたものであ る。蒋政権の名称が如実にその質を示しているというべく、党組織の外観的整備に反して実質は蒋一門の私的結合である。青幇の親分と子分、紅槍会の首長と会 員、そこに働く原理によって党の中央部は結成せられているのである。そうでなければ如何に支那のこととはいえ、蒋の奥さんが、あれほどまでに国務の表面を 乗り切って誰も不思議な顔をしないという手はないのである。

註・青幇 支那社会の混沌たるもののなかから生れた殺人秘密結社である。彼等は常に殺人請負業者として闇の巷に活躍し、支那革命に際しては孫文等 革命党の側について相当活躍した。今では往年の勢力はなく、財閥から金をとっている無頼の徒であるが、米国のギャングの如く財界に相当雄飛しているものも ある。主として長江筋に勢力があり、浙江財閥の杜月笙は青幇の親分として有名である。

註・紅槍会 支那の田舎には民衆自衛のために民衆が自ら武装しているものが今なお多い。これ等のうちには宗教的に結ばれ、民衆自衛から結社をなす ものがある。紅槍会はその一つで会員はすべて長槍のさきに赤い房のついたものを持ち奇怪な迷信を信じ極めて保守的である。北支から満洲の一円にはびこり変 乱が起ると、これ等が大集団をなし匪賊に早がわりしたり軍閥の一翼になったりした。紅槍会匪の名は満洲の匪賊討伐において我々にはなじまれている。これと 同様なもので大刀会とか長槍会というようなものがある。本来は匪賊的なものでなく支那社会の混乱の中から生れた民衆自衛の宗教結社で支那農村社会の混迷の 中にあるのである。

(13) 共産主義と民族性C 喜劇“中共”の軍閥化 空宣伝・民衆を素通り 藤井晋三郎

田舎役者、中央へ

 中国共産党は軍閥化した。この一語は事変以来の中共の本質を最も鮮明に表現したものであると信ぜられる。反軍閥意識 の中心であり、尖端であることを根本の要件として来た中共が、またそれを主観的には不同金剛の信念として堅持しているであろう朱徳、毛沢東、賀竜などが、 自ら軍閥化したといわれては揚子江が河でないといわれたほどに驚いたであろうと思う。されど、それもまた、厳然たる事実であると共に、ここにもまた支那社 会の性質が悠々とものをいうているのである。中共が陝西省の田舎役者から一躍して中原乃至その南北の広大な地区に向っておお展開を起したのは、何んといっ ても今次事変のお蔭である。これほど大げさに、また見事に事変の波に乗るとは合作の相手の国民党も予想し得なかった。しかし中共は大進出の第一歩を踏み出 した瞬間、軍閥化する外なき必然の軌道に乗ったのであった。

民衆、実態を知る

 そもそも支那の軍閥とは何かといえば国軍ならざる私軍が兵権の威圧をもって国民を屈従せしめ独裁と搾取とを恣にする ものだと定義するの外はない。その力が一定の段階に達すれば政権構成を整える。文物制度を確立する。地方国家乃至中央国家創建する。しかし、その本質は遂 に依然として軍閥である。政府が公機関でなくて強力を持する者の私機関であるということ、これが軍閥は如何に出世しても軍閥であることの基本概念である。 さらば公機関と私機関との差別を何に求めるか。この説明を最も的確に引き受ける者は民衆の意識である。民衆の意識が自分の頭上の強権は、その所有者の私軍 であり、私機関であると信じて秋毫も疑わざる限り、それは何としても軍閥である。そういう批評は中国共産党が多年旧軍閥に対して放って来たところである が、それが今、そのまま中共に返上せられるべき成り行きとなったのである。昔の瑞金や最近の延安のことはここで断言しな。事変以来、中共の支配下に巻き込 まれた地区の、更にわが軍の占拠によってその民衆に接することの出来るようになった山西、山東、河北、江蘇、そのほかについていうならば民衆の正直な意 識、自然の感覚を透して中共の実態は軍閥であることが、いささかも躊躇するところなく断言せられ得るのである。

註・瑞金 江西省東南部にあり、一九三五年支那共産党が大西遷を敢行するまで支那ソヴィエトの首都をなして来た。
延安 陝西省北部にあり、膚施とも呼ばれ、現在支那共産党の首都である。

悪辣な農民搾取

 この短文は決してデマを目的とするものではない。ただ正直に共軍の素質と行動の実態を眺め、これを既往の諸軍閥に較べ 来って、共産軍もまた、或は共産軍こそ軍閥であるとの断定をするのである。実情に対する一般民衆の感じを離れても、かれが軍閥となる外なかった必然の往路 は、例えば次の諸点によっても容易に推定することが出来るであろう。

一、あれほどの大兵団を短日月の間に編成し得たのは既存の野性的匪賊を誘導、或は威喝によって吸引し併合したからである。その実話は到るところ無 限に見聞せられる。(彼のいうが如き良民青年の募集訓練による方法の如きは、見本的小部分に行わるるに過ぎず。宣伝の材料としての意味にしか価していな い)
二、兵員の数々においては既往の如何なる軍閥よりも多い。その糧秣は殆ど全部現地においての無償徴発である。即ち単純なる搾取である。このことが一般農民の生活を制圧した程度は想像以上である。
三、物資のみではない。労働力の搾取もまた実に辛辣を極めた。蓋しわが軍の討伐に備えんとして陣地の構築その他戦闘の準備を急いだこと、これまた 既往の如何なる軍閥よりも甚だしかった。一家族全部を約一ケ月間、毎日十五、六時間の塹壕掘りに使役せられて遂に家族が分散したという河北省での一事例の 如きは少しも珍しいことでない。いわば殆ど全部がそれである。

理窟をいう軍閥

四、支那民衆の慣習風俗を蹂躪した。例えば民衆が尊崇措かざる墓地を陣地のために掘り返すくらいのことは眼中に置かない。
五、かかる事態が、民衆をして共産軍を軍閥なりと意識せしめたことは当然である。単なる軍閥ではない。理窟という軍閥だったと一支那人は痩せた頬 で笑った。全くその通りで党軍の至上命令に背けば勿論、労働に熱がない。麦を隠して出さなかった程度でサッサと漢奸にされてしまう。漢奸の殺し方なども相 当に残忍を極めている。
六、党軍は自分のこの弱味を救わんとして抗日宣伝に狂躁をきわめる。されど、その宣伝は一般民衆の頭上を遥に高く素通りしている。宣伝の技術もまた稚拙甚だしく機械的標語を反復するのみで、民衆の実生活に浸潤した宣伝の如きは一つとして行われた跡を見ない。

 かかる経過によって所謂共産抗日軍は拡大生産せられて来た。何としても軍閥としての発展である。それが民衆の意識に軍閥として映じたのは当然すぎる。これが事変下における中国共産軍の姿である。

(14) 共産主義と民族性D “党”を匪賊同様毛嫌い 中共の人為策破綻当然 藤井晋三郎

民族の本質的反党性

 中国共産党の軍閥化。喜劇でもあれば悲劇でもある。しかし、かかる成行きは中共にとっても、モスクワにとっても、 意識的な目的ではなかった筈である。さらば何が一体中共をそこまで追い込んだのか。原因は種々の角度にあるが、その大きな一つは国民的性格の面の上にも見 出される。これを一言にして尽せば、支那民族は軍や党が本質的に嫌いだということである。党という字義が支那においては単なる結合体の名称ではなくて、道 徳的な否定の意味を含んでいることは今さらいうまでもないところであるが、それは士君子の思想を表わしただけの話ではなくて、一般民衆の意識や感覚も表わ している。相手が党的存在である限り、士君子は士君子なりに、これを排け、民衆は民衆なりに、これを嫌う。その意識内容を分析してみると総ての党なるもの は、民衆の実生活の自然の姿ではなく、それに反しそれを制圧するものとして感ぜられている。換言すれば、支那民族の性格的方向は政治上の党の如きと即合し 得ざる本質のものである。このことは如何なる政党も、それが民衆と渾一化することは不可能である、民衆の一体的支持によって党の勢力を拡大する過程は望み 難きものである。故に党が生長すれば生長するだけ民衆の意識と反撥し合う傾向を強める。この障碍を打ち越えて進む途は力をもって民衆に臨むの外はない。強 権は必然に民衆から遊離するべき本来性を含んでいる。支那民衆の意識傾向からいえば匪賊と政党との間に本質的なる差別がない。異なるところは形式と名目だ けである。匪賊に襲われることも、政党に拡がって来られることも、民衆から見れば共に困ったことである。困ったとて、それに抗争する力を持たない。そこで 黙々として力に聴従し、巧妙にその統圧の下をかい潜って行く。それが没法子の姿だと一般にいわれている。没法子心裏の一つの素因が、かかる社会批判、生活 態度であることは認められる。されど党の運営上の技術的手法と、党がよって立つイデオロギー的根拠によって、そういう民衆の対党軍態度を多かれ少かれ修正 することは不可能でないとせられ、国民党も、共産党もこの点に自ら深く信ずるところがあった。されど事変の乗じて慌ただしく拡大した支配地区においては、 そういう新情勢を建設するなどいう余裕を全然欠いていた。その事は党的存在の一般的なる運命の下に、中共もまた陥ちこむの他はなかったのである。中共自身 の特質、その所謂支那化的性格修正の上にも技術的な錯誤があった。その錯誤の最も大なるものは抗日の口号をもって民心を吸引し得ると考えたことである。し かし一方、民族の性格の一面からいうならば、反党的本質という民衆の意識が中共の作業を喜劇に終らしむべき舞台となったのである。

大江の如き漢民族

 軍閥化した共産軍の前にも民衆は素より従順であった。他の既往のすべての軍閥んい対しても、そうであった。これを もって或る人々は、支那民衆は無政府主義的であるという。他の人々はまた、面従腹背の狡猾なる国民であるという。しかし、この支那民族の特質は他の国民の 生活の間から生まれ出た観念をもってしては批判し、規定し難きものであると思う。それは寧ろ支那民族自身の「道」である。大江が大江の姿をもって大江の道 を流れる。悠久幾千年、あの姿で流れて来たのだ。それにも似た支那民族自身の道が、ここに寧ろ示されているのではないか。和するでもなく、背くでもなく、 制せらるれば従い、放たるれば進む。共産党の宣伝も、作業も、民衆にとっては屋上一過の風ではなかったか。共産党の対民衆作業が一部の人を憂えしめた如く 民心を侵蝕し得たものでなかったのも、その誇示した民衆組織が当事者の観念的遊戯に終り、謀略的擬装に過ぎなかったのも、要するに支那民族の道を解せざる 人為的作業の破綻を示すものではなかったか。されど中国共産党はここまで来て、その観念的抗日意識の宣伝、その擬装的民衆組織の押売、それから軍閥化、強 権の□大による民衆制圧などが、凡てこれ高価なる喜劇に終りつつあることを、今にして必ず自ら省察して来たであろうと思う。それならば、必然次に来るべき 中国共産等の大転換が予想せられなければならぬ。その転換の要件や方向をここで明かに推定し得るものではない。しかしこの新方向は、多かれ少かれ、支那民 族の民族的性格に接近したものであることは確であろう。現在すでに断片的に表われつつある各種の事態の中に、新方向を眼ざす中共の作業が自然発生的に萌芽 を示しているのではないかと思わるる筋もある。今後、中共に対する方策を思索する基礎的要件は、この辺の勘どころを抑えてかかることであろうと思う。
=藤井氏の項終り=

(15) 政治外交の性格 A 弱味を衝く“花子哲学” 「弱肉強食」攻防の修練 吉岡文六

教訓的高飛車に出る

 支那の花子(こじき)は決して「一文おくんなせい」と下手からあわれみを乞わない。「旦那、善行をなしなさいよ」と教訓的に、高圧的に出て来る。そして自分に金銭を投与することを始めから善行と決めてかかっているのである。
 この花子の口うらに表現される考え方が、近代の政治、外交の表裏に幾多の事例となって表れて来るのである。支那人というものは恩恵を正面に受けない。恩恵を与えらるれば相手の弱点と考えたがるのである。
花子は、金銭を投与する人に善行をなす機会を与えてやるのだと思っている。善行をやるからには罪障の消滅を願っているのか未来への功徳を考えてい るのだといった考え方である。相手に弱味があるか欲するところがあるからだとするがゆえに、前記のような花子のような表現が生れて来るのである。
 勿論、現実、個々の花子が、こうしたハッキリした意識をもち、そして表現しているのだとは考えられない。現実には、ただ紋切り型の言葉を紋切 り型に喋っているに過ぎないのである。であるが、この紋切り型がどうして生れて来たかということを考えると、支那四千年、或いはもっと以前からの人的集団 の深刻、複雑なる種々相に揉まれ揉まれて帰するところに帰した支那民族の一つの性格からの所産だとしなければならないのである。
 現代に残されて来た一つの表現の仕方も、過去幾千年の歴史の所産である。根無し草のようにポッカリと生れ出でたものではない。現代花子の無意識に表現する紋切り型に、実は万斛無量の支那の社会史が包蔵されていなければならない筈である。

自己防衛の戦術

 支那の社会史を一貫して通ずるものは「弱肉強食」である。これは必ずしも支那に限らない。濃度の差こそあれ、いやしくも人間集団のあるところ、必ずあるのである。これを調節し得る唯一のものは正しく強き政治の力であるのだ。
 支那は不幸にして地域が余りに広大であった。地勢が余りに複雑であった。そして余りに巨大なる人口を包蔵していた。これを対照とした政治は如何 に部分、局部的に強力にしろ、全面に行き渡って調節の役目を果すことが出来なかったのである。従って支那人は四千年来この「弱肉強食」の野に彷徨していた のである。
 頼るべき政治がないならば、個人は、集団は、自らの力によって「弱肉強食」に対処しなければならない。強きものは如何にして強きを保ち、弱き ものは如何にして弱きを蔽い、強きものは如何にして弱きを食い、弱きものは如何にして強きを防ぐ四千年来支那人の生活態度を決定した根帯は、ここにあるの である。
 個人は、集団は、自らの力によって「弱肉強食」に対処する。従って個人は、集団は、自らの楯をもち、自らの槍をもち、或は毒気をもち、甘美な 香をもち、変幻譎詐の術をもち、或はトーチカの中にはいらねばならない。凡そ今日の僕等が支那の民族性として数え上げる特異なものは、深くこの弱肉強食の 野に生れては死し、生れては死んだところの人間の苦しまぎれの自己防御の戦術の集積だと考えなければならないのだ。

“弱者擬装”の表現

 花子が下手に出ずに、教訓的に「旦那、善行をなしなさい」と善行を行う機会を与えるような表現をする。もし支那の 花子が日本流に一文の恵みを受けるという表現をしたら、どうであろうか、というのである。支那の歴史の中には幾億という花子がいたであろう。その中には日 本流の表現をしたものもあったであろう。だが、これらの花子の生活体験は、弱者が弱者の表現をすれば、弱者はどこまでも強者の態度をとる。強者の圧力は強 くなる、ということを教えたであろう。弱者でありながらも真正面から弱者たることを表現することを頗る不利とするのである。
 罪ほろぼしや未来の功徳にひっかけて-いわば強者の弱味に引っかけて善行の機会を与うるが如き表現形式をとっていることに、僕は千万無量の興味を感ずるのである。
 しかして一九三〇年代の今日においても、支那の政治、社会、あらゆる部面に、この民族性が灼爍と現れて来るのを見たのである。政治家でも、軍人 でも、外交官でもインテリでも、あらゆる階級の人人に、集団に、この祖先の生活体験から生じた性行が発見されるのである。僕に与えられたる課題は、現代政 治、外交の面に現れたる「支那人」である。この角度から支那の政治外交を見る。(筆者は本社政治部長)

(16) 政治外交の性格 B ニガ手は“徹底的断行” 遠く遡る事変の原因 吉岡文六

 近代の支那の政治、外交の面において僕等は幾千回となく、支那のこうした民族性を経験した。その中でも僕が最も興味深く感ずるのは「万県事件」と「南京事件」とである。
 この二つの事件は、南京政府の発生期において相次いで行われた揚子江岸の不祥なる事件である。前者は英支間に、後者は大体日本を中心に支那と列 国間に生じた事件である。この事件の興味は万県事件においては、英国は強者の権威を狂気じみて発揮した。南京事件では日本は、大国の襟度をもって飽くまで 恩恵的態度で臨んだ。その結果が「支那人」の集団であるところの南方革命軍の指導者達に、如何なる作用を起さしめたかという点である。そして如何なる結果 になったかという点である。僕は、この二つの事件に表現された英、日の態度と、支那の民族性を考慮して南京政権を中にしての日英の勝負はこの時に完全につ いてしまったと思っているのである。
 今から十四年前、蒋介石は北伐軍を率いて長江一体になだれ込む。「打倒英国帝国主義」の旗は無暗に振られたのである。熾烈なる排英気勢であった。そして万県事件起る。
 ここで一寸「支那人」には関係ないが、「打倒英国帝国主義」の旗は、なぜ打ち振られたかということを考えなければならない。今日の支那事変の原因が糾明されるからである。
 僕は常に、こんな主張を持つ。それは後世、今回の支那事変史を編むものあれば、その原因の項において一九一九年の秋に、カスピ海の沿岸の小都市 に行われたソヴィエト・ロシアの東方会議まで遡らねばならないということである。この会議においては夥多の決議が行われた。その中に、こういう項目がある のである。「支那においては民族主義をおこさねばいけない。そして帝国主義国家の権益を阻害する。民族主義を起すには、「支那人」に隣国を憎むという感情 を教えなければならない」
 ソヴィエト・ロシアの過去二十年間の対支政策の根底に流るるものは、常に如何にして「支那人」に隣国を憎むという感情を植えつけるかということにあった。一九三九年の今日まで一定不変の方向に向いているのである。
 支那人は自国の強大なることを殊さらに誇り相手を軽蔑する感情は共通にもっていた。だが、隣国を憎悪するという狭い感情は頗る稀薄であったので ある。近代のナショナリズムは、この隣国を憎むという狭い感情-敵愾心を根帯にして発生する。しかして近代国家の発生は、この近代的ナショナリズムを必須 のものとするのである。
 そこで、このソヴィエト・ロシアの方針(ボロージンによって当時指導された)と蒋介石の国家統一への必要とが合体して、まず英国が目の敵にされたのである。「打倒英国帝国主義」はこうした目的のもとに掲げられたスローガンであった。
 万県事件当時の写真を見ると万県の原形は何処にありやと思われる位に猛烈なる砲撃が加えられているのである。やるならば断乎として行う。行えば 徹底的に力を振うということが「支那人」には最もにが手である。千年来「支那人」が最も恐れたものは、この徹底的に振われんとする力であった。
 英国が万県事件で表現せるものは、いざとなれば断乎として行うという決断力と、行えば無遠慮に徹底的にやるという根性骨の強靭性であった。「支那人」の集団であるところの南京政権の指導者達がこの表現に対して、いかに狼狽したか。
 世の中が泰平になって南京政権が確立した頃、戴天仇(現重慶政府考試院長)は当時の心境についてしみじみと筆者に語った-
 「実は英国という国は、われわれは試験済みのつもりでありました。香港のストライキや、五・三十事件や、その他の英支間の事件でへこたれていこ ととを知っていた。然し、いざとなるとドギツイ反撃力をもつものだ。万県事件はその一つであるが、僕等が心配したのは、この万県事件に示されたような態度 が、その時成長中の南京政権の主体に加えられたら、どうするかということであった。恐るべき結果になることは明瞭だ。方向転換の必要は当時の要人が悉く感 じていたことであった」
 そこで僕等は考えたのである。あれほど熾烈であった長江一帯の排英運動が終熄したのは、英国の漢口、九江、鎮江租界の返還というやわらかな外交の一面に非ずして、この万県事件に示された「強者の威力を無遠慮に揮う」という実力の作用であったということである。
 もしこれを表面に現れた外交上の成功とするならば、それは「支那人」の民族性を知らない皮相な幼稚な観察としか受けとられない。

万県事件 民国十五年(南京事件の前年)八月二十九日英国汽船会社太古洋行所属万県号が揚子江上流四川省万県に至った際積荷に不審のかどありとい うので当時万県にあった四川の楊森軍がこれを占領した、ここに楊森軍と万県号を護衛して行った砲艦コックチェーファ号との間に戦端が開かれ九月五日までつ づき英国側もダーレー中佐以下十数名の死傷を出したがこのとき英国が加えた猛砲撃で万県市街は殆ど廃墟と化したといわれる

南京事件 民国十六年、一九二七年わが昭和二年)三月二十四日、蒋介石の率いる北伐革命軍の南京入城に際し激昂せる革命軍の一部は反帝国主義を唱 えて英、米、日、仏、伊等各国領事館を襲撃、各国居留民に対し掠奪暴行をなし、日本領事館及び日本人は最もひどく蹂躪された、このとき英、米、仏三国は揚 子江上の軍艦から南京城内に盲滅法に砲撃を加えたが、日本は当時支那と事を構えざる方針であったので日本のみは南京砲撃に加わらなかった

(17) 政治外交の性格 C 暴君的残虐性の徹底 蒋独裁成功も此の“こつ” 吉岡文六

 英国が万県事件において表現せる態度は「支那人」が長い歴史の中で、手も足も出なかった、そして長いものには捲かれろと諦観しきったところの「暴君的行為」の一つの型であった。日本なら必ず佐倉宗五郎が一役買って飛び出すところであるのだ。
 長い歴史の経験によって「支那人」は強者の揮う力に対しては、どこまでも守勢的、防御的態度をとることを教えられた。勿論長い歴史の間には幾多 の佐倉宗五郎がないではないのである。しかし何れも余りに惨めな結果であった。余り利口な態度とは「支那人」は受けとらなかった。それよりも「菊を東籬に 植えたり」「竹林に酒をたしなんだり」「髪を散じて扁舟を弄ぶ」という個人の人間的生活に小さく閉じ籠って極端な消極生活に世界を発見したのである。結局 長いものには捲かれて、浮いたか瓢箪の態度をとるか、白雲去来の境地に自己を置いて、浮世と離脱するかの二つの路をとるのである。従って、これを逆に強者 の側からいうと、誠に都合のよいところである。何者にも制約されることなく「暴君的行為」の行えるところとなるのである。
 文献に残されたる支那史の真偽は論じないとしても、桀、紂とか秦始皇とかの世界的の暴君政治は一片の文学ではないであろうと思う。明君として伝えられている明の太祖にしても天下を統一するまでには百万の人間を虐殺しているというのである。
 「支那人」は残虐性をもつという。これは個人の場合に表現される暴君的素質である。言い換えれば強者の力を無遠慮、無制限に発動することであ る。「支那人」に殺された死骸を見ると、実にむごたらしいものが多い。強者の立場に立った加害者が何者にも制約されることなく実に徹底的に強者の力を揮う た跡が歴然たるものであるのである。
 強者の力を無遠慮、無制限に揮われるということは「支那人」にとっては非常な恐怖である。この恐怖の深刻さは、歴史に経験の少い日本人の想像 も許さない程度である。「支那人」は政治生活において、また社会生活において、余りに多く、この経験をもっているのである。この気合は大震災の惨害を経験 したものと、経験せざる者との地震に対する恐怖の度合が異なるようなものである。従って歴代支那の統治者の統治力の根帯は、文献には如何なる美文が綴って あろうとも、この恐怖の主体としての確立であろうと思う。しばらく歴史の穿鑿は措くとして、われ等が近代の支那の政治において現実に見たのは、これであっ た。
 蒋介石が統治者としての、ほん的にも慴伏されてしまったのである。ここに爾来十余年、ピクリともしなかった蒋介石独裁的統制の基礎は置かれたのだと僕は思っている。
 李済●監禁事件というのは、こういうことであった。当時武漢に広西派の李宗仁が蟠踞して蒋介石に弓を引こうとしていた。広西派の重鎮李済●は上 海にいて李宗仁と気脈を通ずる一方、蒋介石とも連絡があった。蒋介石はこの李済●を□めとって武漢の広西派の鋒をにぶらせる必要があった。時たま時たま南 京政府成立はじめての全国代表大会があり、蒋介石は、時の元老呉稚暉、李石曽、張静江を上海に派して李済●を迎えしめた。李済●の生命の保障、その他一切 の保障をこれ等の元老団がして、蒋介石からも一札をとって李済●は南京に乗り込んとうの貫禄を示したのは、北伐戦における軍事の成功や、その後における政 治、経済の企画や人望といったようなものではなかった。事件のスケールは小さかったけれども、南京政府成立の翌年三月起った李済●の監禁事件である。この 事件において蒋介石は、強者の威力を無遠慮、無制限に発揮したのである。断乎として行い、徹底的にやるという強靭なる性格を初めて露出したのである。この 蒋介石の態度は、蒋周囲の南京の政治家にピリッと響いた。これを契機にして今まで蒋介石と対等と思っていた政治家も精神的にも、行動だ。蒋介石は、これ等 の保障や約束は平気で破って電光石火の間に、この愛すべき李済●を監禁してしまったのである。
 李済●が監禁された日は、軍官学校の庭に杏の花が咲いていた。僕等はこの軍官学校の講堂で行われた全国代表大会を傍聴していたのである。李済 ●と蒋介石は並んで腰をかけていた。今でも眼底に彷彿として浮かんで来るが、蒋介石は李済●の肩を抱きかかえるようにして談笑していた。その有様は宛も久 しく逢わなかった愛する弟に対するようであった。二人の仲が兄弟のように睦まじいのを見て僕等は安心していた。会議が済んで僕等が門のところで自動車を探 していると、そこへ蒋介石と李済●が談笑しながらやって来た。
 李済●が自分の自動車に乗ろうとした瞬間に、蒋介石の衛兵が十人ばかり馳せつけて李済●を引きずって別な自動車に乗せてしまった。この間の出 来ごとはほんの一分間位であった。僕等はビックリしながら眼をホッと蒋介石に転ずると、手を後ろに組んだ蒋介石が冷然と立っている。僕等は初め鋼鉄で作っ た人像でえはないかと思った。僕は支那におる間、幾千回となく蒋介石の様々な姿を見たが、この時くらい蒋介石の強靭なる根性骨の露出した姿を見なかったの である。その時まで声威隆々たりし元老の立場を無視し、世評に一顧を与えず、必要なれば無遠慮、無制限に強者の力を揮うというこの蒋介石の断乎たる態度 は、一時は政界の動揺を招いたけれども結局、元老や同輩の位置を転倒して蒋介石のにらみが深刻に南京政府の内部に利けるようになったのである。蒋介石の統 制力は夥多の要素からなっているけれども、その基礎は右に述べた鋼鉄の人像のごとく冷然として何者にも制約されず強者の力を揮い得る根性骨にあるのだ。
 実に蒋介石の独裁政権樹立は、この一分間の出来事に出発点を置いていると見ていいのである。この小なる事件において蒋介石が南京政府を牛耳る 基礎を築いたと同様の意味で、英国が今日まで蒋政権との固き結合をなし得た出発点は、実に一見無茶に見えた万県事件にあったのである。

(18) 政治外交の性格 D “恩恵”や”高圧的”は禁物 排英から抗日急転理由 吉岡文六

同情へ軽侮の返礼

 複雑微妙なる「支那の民族性」を考える時に、概観や形式が、いかに論理的、道義的に整頓されていても、結果が直ちにその線に沿うて表れて来ると考えるのは幼稚なことである。
 その代表的な事件に南京事件があるのである。南京事件当時は、日本は幣原外交の全盛の時であった。幣原外交の対支原則は、当時の議会でも声明さ れたが、論理的に、道義的に実に申分のないものであった。ただそれだけの話しである。大学の講堂ででも論議されておる間はそれでよかったのであるが、これ が「支那人」の集団に実践された場合に実に恐しき結果を生んだ僕は南京に在留している間に当時の居留民の経験を叩いたのであるが当時の日本の出先当局の隠 忍自重は実に大したものであった。人間業ではないと思うのである。幣原外交の精神を真向正面から遵奉し対処された。日本は叩かれ放題侮辱され放題であっ た。こうした態度を日本がとった真意は何処にあったかといえば日本は南方革命軍(蒋介石)の新国家建設運動に大なる同情をもっていた。そして、その国家建 設の過程のいて日本の権益と摩擦を生ずることある場合も日本の犠牲において辛抱し同情的、恩恵的態度を示して新国家との新関係に入る準備と考えていたので ある。ここまではそれでよいのである。然しこれが現実に、四千年来弱肉強食の野に彷徨して、海千、山千の甲羅をもった支那民族性に対照した時に、思いがけ ないものが待っていたのである。

南京政府生存の方便

 南京事件直後の現象は排英運動がピッタリと止んで、猛烈なる排日侮日の運動が起ったのである。ここでわれ等が最も 注意しなければならないのは、隠忍して叩かれ放題の日本に敵意が起り、南京事件においても毅然として大砲を打ち込んだ英国に対する敵対運動がなぜ止まった かという点である。これは日本人の常識では勘定がどうしても合わない。この点が日本人と支那人との民族性の大きな差異であるのだ。当時南京政府は前にも書 いたように、英国を恐れはじめていた。万県事件に英国が示した無茶を、そのまま南京政府にやられた日には、蒋介石の統業は根本的に崩壊する危険を感じてい たのである。国民の前に英国を引き出して敵意を煽り、民族主義の高揚を計ることは危険である。目標を変えねばならない。そこへ運悪く現れ出でたるものが南 京事件における日本である。支那人であるところの南京政府の指導者達がこれを見逃す筈はない。南京政府の政策は南京事件を契機として急転し日本を敵に廻し てナショナリズムの高揚をはかるということになったのである。その後十幾年幾多の曲折はあったけれども南京政府の方針は一貫して動かなかった。それは日本 が一度も万県事件における英国の態度のようなまた李済●監禁事件における蒋介石のような態度を示したことがないからである。
 こういって来ると支那人には高圧的に臨めと解釈されるかも知れないが、支那人が高圧的なゼスチュアに屈伏するような生やさしい民族と考えるの は大きな誤りである。或る一線を越えたが最後、刀は抜かれる。抜いたが最後、遠慮会釈なく徹底的に斬りさいなむというド根性骨の強靭性にのみ支那人は捲か れるのである。

高圧と強靭の違い

 蒋政権が南京に存立していた過去十年間の日本の対支政策を顧みると、緩急はあったけれども高圧的なゼスチュアが多 かった。南京政府が次第々々に日本を馬鹿にする傾向は濃厚化されたのである。高圧的であるということと、ド根性骨の強靭性とは、ともすると混同される。高 圧的態度には「支那人」は支那人流の対処の仕方を知っている、対処の方法のないものに対してのみ恐怖するのである。このド根性骨の悪さは「支那人」には底 気味悪く感ぜしめる、底気味悪き対象には支那人は意気地がなくなるのである。南京滞在中僕は馬福祥という回教徒の頭目で、当時蒙臓委員会の委員長をしてい たお爺さんと仲よしになった。このお爺さんは実に温厚の長者ではあったが、周囲の人々や乾児達がみじめな位慴伏していた。僕は多くの支那の要人と交際し、 一派の親分と交ったが、この馬福祥くらい周囲にニラミの利けた男を見ないのである。この男は、口数をきかない、いえば「叱責」である、相手に弱点があれば 徹底的にきめつける、決して雑談をしない、相手に恩恵を与えるような言葉は絶対にはかない。僕はこの態度を見て支那人を御する秘訣はここにあると思った。 僕の使っていた支那人の使用人は余り数は多くはなかったけれども、一切の雑談を止めた、いえば叱責と命令である。その後五ケ年間、抗日運動熾烈にして使用 人は幾多の圧迫を受けたらしいが、不平の一言もいわずに勤勉に努めたものであった。寔に微妙なものであるけれどもこれは支那四千年来現在に伝わった一つの 民族性の奥底を突いているのである

(19) 政治外交の性格 E 初めて日本に“恐れ” “蔵本事件”の与えた影響 吉岡文六

民族性遺憾なく発揮

 昭和九年の六月に蔵本事件というのが起った。外形は屁のような事件で、僕の長い新聞記者生活で、こんな馬鹿らしい 事件を取扱ったのは後にも先にもたった一度であった。真相が明かになって僕は何度かチェッと唾をはいたことを覚えている。それほどつまらない事件ではあっ たけれども、事件の進行中、たった三日か四日の間に「支那人」の集団である南京政府に与えた影響は実に深刻なものであった。南京政府が南京に都すること十 年、その間、日本というものに対して実に切羽つまった、真剣な態度で考えさせられたことは、この時ぐらいのものであろう。前記の支那の民族性が実に遺憾な く表現されたのである。たった四日か五日間ではあったが日本というものを底気味悪く思った。日本に対してはじめて恐怖の感情が湧いたのである-だがこれは 誤解であり、思い過ごしであるということがわかって屁のような結果になったのは残念であった。
 昭和九年といえば上海戦争の翌翌年であり、蒋介石が本格的に対日戦争の準備をはじめて、内部の整頓を急いだ頃である。憲兵、ゲ・ペ・ウの機 能、活動が熾烈になりかけた頃である。従ってその頃は南京においては、日本人とゲ・ペ・ウ、日本人関係の支那人とゲ・ペ・ウ、こんな関係の無気味な事件が 続発していた。僕等のところに連絡していた善良な支那人が幾人となく行方不明となりこの世から消されたのは、その頃の出来ごとであった。そこへ南京総領事 館の書記生の蔵本氏が行方不明となったのである。当時南京に住んでいた日本人は一分の疑念もなく、ゲ・ペ・ウの仕業だと確信した。僕等もその一人、須磨総 領事も、陸海軍の武官も、居留民も、一人としてこれを疑うものはなかった。それほどその頃のゲ・ペ・ウの所業は甚だしかったのである。そこで日本側では初 めっから南京政府の所業と決めてかかって、須磨総領事からは事件の責任を問う権利を留保するという一本を南京政府に叩き込むと同時に陸軍武官の方面からは 南京の中央部に日本の専管居留地をつくれという強硬な意見が出て来た。勿論スパイ網の発達した当時のことであるから、この意見は直ちに南京政府の知るとこ ろとなって、彼等はビックリしたのである。後で判ったように蔵本事件というのは、実際日本側で考えたようにゲ・ペ・ウの仕業でなくて蔵本氏の単独行為で あった。紫金山の中山陵の後からヒヨクリと現れ出でたのである。僕等は彼が生きながら出て来たということを聞いた時に自分の耳を疑ってただ茫然たるのみで あった。

藍衣社の巨頭も狼狽

 一方南京政府の方では、憲兵関係や、ゲ・ペ・ウの組織活動を調べて見ると、蔵本氏に働きかけた痕跡がない。日本側 が何で強硬であるか判らなかった。結局、蔵本事件をもって、日本が満洲事変の発端となった中村事件を仕組み、いよいよ南京政府の本体に向けてやって来たの だと思った。日本は江南に満洲事件の復習をやるのだと考えた。日本がほんとうにド根性を据えて南京を叩く前提だと考えたのである。当時の南京政府の狼狽の 仕方は甚だしいものであった。泣く子も黙った藍衣社の巨頭憲兵司令官の谷正倫すら僕等に弁解これ努めたものであった。
 南京政府がどうしてこう狼狽したかといえば日本の「ド根性骨」を見直したのである。ウッカリすると南京政府の足元をさらわれる危険がある。こ の懸念は南京政府の要人が万県事件後英国に対して抱いた心配と同様である。僕等の南京滞在七年半の間にこの時ぐらい僕等が南京政府の政治家に鄭重に取扱わ れた時代はなかった。
 蔵本氏が出てきて外交部に連れてこられた時に僕等は外交部に行った。出てきたのは後年兇弾に斃れた外交次長唐有任であったが僕等にお茶をく む、葉巻を出す、そして小娘のごとくいそいそとしていた。「ソレ見たことか」と冷然と見返してくるだろうと思っていた僕等は一寸面喰った。唐有任がこれく らい鄭重でしおらしかったのは前にも後にもこの時きりであった。須磨総領事は「責任を問う権利を留保する」と一本叩いている。その引っこみをどうつけるか と大分悩んだ。時の外交部長汪兆銘と会うと汪兆銘は揉手をしながら「一切はもう解決したと考えていいでしょうな」といった。この言葉を僕は劈頭に書いた花 子の言葉の如く支那四千年来の歴史に造り成された民族性の一表現と見るのである。

(20) 政治外交の性格 F 徹底した現実主義 自己保存欲 露骨に習性化 吉岡文六

四千年来の「保護膜」

 支那人は極端な現実主義者である。自己保存のためには一切を帳消しにする。四千年来弱肉強食の野に彷徨して来た経験は、支那人に厚い「保護膜」を作った。宛も針ねずみのようなものであろう。この保護膜が現実主義であるのだ。
 たとえば支那人はなかなか認真しない。認真したが最後、直ちに弱者の位置に転落して強者の料理にまかせなければならないからである。社会公平の 標準がハッキリと立っておれば認真もし易いのであるけれども、飽くまでも弱肉強食の世相であったが故に、保護膜はその現実に応じて頗る硬化しているのであ る。
 僕が南京に住んでいた頃、隣家に若い夫婦が住んでいた。そのまた隣に金陵大学の書生が部屋借りしていた。若い細君と学生とはいつの間にか出来 合って現場を押えられて大騒動がもち上った。打官司になって、この三人のいうことが実に面白い。夫は「外出先から帰って来るとこれこれの始末」といい、細 君は「昼寝中にこの書生が入って来て暴力を揮った」といい、書生は「隣で夫婦が喧嘩してやかましくて仕様がないから仲裁に入っただけだ」と白を切ってい た。そして徹頭徹尾認真しない。官司の方が屁古垂れるのである。在来の支那の法廷では実際のところ黒白はつかない。一定の形式で勝負を決定するよりほかな いのである。男女同室して扉を閉いでいた場合ははじめから関係ありしものとして勘定される。大きい車と小さい車と衝突した場合は大きな方が責任をとると いったような例はいくらもあるのである。保護膜が強靭であるが故に正義や責任というものよりも自己保存の方が先に立つのである。

極端な「功利主義」

 これが政治面に現れると、日本人には想像も出来ない形で現れて来るのである。近い話では西安事件である。張学良は さしあたり明智光秀である。蒋介石は信長であった。信長が光秀と仲直りが出来る筈はないのである。張学良は蒋介石を殺さず、また蒋介石も張学良を殺さな かった。恩讐の感情をこえたリアリズムがあるのである。それは蒋介石には東北軍という厄介なものをもっている。この東北軍は学良のいうことしか聞かない。 蒋介石の軍力統制のためには学良が必要であった。
 汪兆銘が幾度か蒋介石に弓を引いて罵倒した。馮玉祥、閻錫山は二回も三回も蒋介石を裏切った。唐生智は二度蒋介石を裏切って叛乱した。石友三 も、張発奎も白崇禧も、李宗仁も蒋介石の命を狙った男である。それなのに蒋介石は二度も三度もこれを包容した。包容力が大きいというわけではなく必要とあ れば恩讐を離れて使用価値を発見するのである、極端なユーテリタリアニズムである。
 昭和四年の秋、蒋介石は広東と事を構えた石友三軍を広東に増援するため南京対岸の浦口に集中した。石友三はここで叛乱して今にも南京は落ちそ うになった。当時上海にいた居正は日本人に扮装して南京に入り南京に暴動を起して蒋介石の首を狙ったのである。居正の策動は結局失敗に帰して運動資金の三 十万元は喰い逃げされ這這の体で上海に帰ったが上海で逮捕された。南京に幽閉されること半年、ガラリと扉が開いて蒋介石の使者から渡されたものは「任司法 院長」という辞令であった。居正はこの時ぐらい面喰ったことは一生はじめてであったと語っていた。広東派懐柔のため居正が必要であったのである。
 自己の生活に必要であれば恩讐も面子もないのである。支那人は面子を重んずるという、勿論形式的には非常に重んずる、重んずるように見える。 だがこれは頗る限定的なものであって、自己保存の道具としての表現にしか過ぎないのである。名誉のためには死するというものでなくて、死せざるがために面 子を重んずるということなのである。多くの場合強者に対する自己防御の手段として用いられているのである。
 要するに支那の民族性は、弱肉強食の野に放置された人間の集団が、強きものは如何にして強者の地位を保ち、弱きものは如何にして強きものに喰われないかという自己保存の慾望が露骨に習性化されたるものに外ならない、一切はそこから出ているのである。
=吉岡氏の稿終り=

(21) 農村(上)西南の封建的残滓 中支、江南の階級対立 天野元之助

 パール・バック夫人の「大地」は、支那事変以来支那に関心をもち出した多数の邦人によって愛読されている支那農民の生活を取り扱った小説である。それは主人公たる貧乏百姓王竜が、その村の大家黄家の婢(おんなどれい)阿蘭を嫁として貰いにゆくところからはじまっている。

安くて便利な婢妾

 一体、支那では凶歳や戦乱乃至は個人の生活苦から自家の子女、あるいは妻まで他家に売ったり、質に入れたりすること は、全く常套事である。人身売買は法律でこそ禁止されてはいても、事実は公認された重要な商品売買である。農村にあっては、売手は破産した農民であり、買 手は地方の地主富農である。いわゆる「畜婢納妾」とは、かくして購入せられた子女が、その主家で育てられて、その採択によって妾とも、婢ともなるものが多 い。しかしかかる妾、婢は家中で、それぞれの勤めを行うのみではない中、南支では稲の植付、草とり刈入れと婦女の労働を要求することが多く、従ってかれ等 妾、婢は農作に駆り出される。それは正に一般農家が雇う日雇婦よりもはるかに安くつく。広西省の報告では、妾が一年間に主家より与えられる贈り物は実に綿 糸一梱という。これをかれ等はひまひまに織り、自ら裁って著物に仕立てるのである。若干かの資金があれば二三十元で女を買いこれを数年間育てて使うに若く はない。広東仏山の土布工業は、かくの如き織工として使用せられる妾、婢によって大半が行われていると聞く。

農村の主従的関係

 さて、妾はとにかく、婢に至っては年ごろになれば嫁にやらねばならぬことは一家の家長として社会的責務である。とこ ろが、支那では婚喪は一生一代の行事として恐ろしく費用のかかるものである。小康の家(貧乏な家)では一度嫁にもらう段になると、田を抵当に入れ、また売 るようなことは、しばしば聞くことである。それゆえ貧農の家庭では嫁とりこそは望外の一事である。従って西南支那では、三年乃至五年を年季として作男を雇 い、それも、その間賃銀は与えぬ代り、女を世話して結婚させてやると約束し、こうして嫁入前の婢を作男の無償の労働と交換的に、かつは大家の面子を立てつ つ、家長の責務を果すのである。そしてかれ等を結婚させて後には若干の田地を与えて家を立てさせてやる。
 かくの如く西南支那の農村には前代の遺制とみられる封建的残滓が極めて濃く残存し、農村社会における主従的関係が今なお依然として存続しているのである。

肥沃地域の特色

 しかるに眼を中支、江南地方に転じ、農村の一様相をみよう。ここはクリークが縦横に発達し、到るところにみられる池塘 とともに田野に灌水せられ「蘇・杭、熟すれば天下餓えず」と称せられるところの肥沃な地域である。そして船運とともに鉄道、自動車が発達し近代都市をその 中に擁し、文化は開け、名族世家(由緒ある家)が今なお世に誇っているところであり大、中の地主が多く地主、小作人の間に階級対立が画然と現れている。
 ここでは大、中地主の小作料取立機関として「租桟」(年貢取立所)「倉庁」(糧米を収納する場所)等々の名で知られるものが、あたかも租税の 取立と動揺な仕組で小作料を取立てている。小作契約書には租米×石と定められていても、毎年作柄をみて取立割合を定め、かつ小作料の納入に際しては、米価 の平均相場に照して徴せられるのである。そればかりではなく、田賦がそうである如くに納入の遅速によって早く納めれば奨励規定により五分から二割までの割 引さえ行われる。

拘留中の食費自弁

 ところが、納期に小作料が納められぬ場合には、租桟は直ちに取立依頼の願書を県政府に提出して県政府の公権力をもっ て取立を請求する。蘇州の例をもっていえば、県政府と地主の組合とが半々に経費を負担し、公安局と財政局から委派した田租処分弁公所(地租、小作料の取立 事務所)がこの仕事を□□し、臨時□(公安局の臨時□)を□して地方の□□□□所□地保□(村の世話□)の協力を得て、滞納小作料の取立を敢行する。そし て、なお小作料を納め得ぬ小作人は、これを拘留して域内にある押□所(小作料の差押えをやるところ)に留置する。勿論、留置された小作人は、小作料を納め さえすれば釈放されるが、□らざる場合には翌年の芒種節までおかれ(その間食費は自弁)農忙期に入ると共に保□をとって釈放されるのである。

天野元之助氏

満鉄上海事務所に勤務せる無事の士、支那農民および農村問題については斯界に知られた逸材であり、世の理論一点ばりの机上の学徒ではなく自身親しく山東をはじめ北、中支の農村をくまなく実地踏査した人である。

[写真あり 省略]

芒種節 芒種とは稲と麦の意味で陰暦四月下旬から五月にかけて麦刈り、田植が行われるのでこの季節を芒種節という。

(22) 農村(下)富農支配下の自治 依然たる旧来の幣風 天野元之助

 小作料を納めずに押佃所(小作料の差押えをやるところ)に留 置される小作人の数は支那事変前までは、大体毎年蘇州、常熟、崑山君江等で多い時期には五、六百人も収容されるのであって、狭い旧式家屋の押佃所では全く 坐ったきりで身動きも出来ぬ状態になるという。従って今から四、五年前のことだが、常熟の押佃所では六、七百人の小作人を収容している中から病人を続出し て始末に困り、滞納額の少い者や情状酌量し得る者を釈放して急場の処置をしたが、その翌年は、これに鑑み朝、昼二回、押佃所から引出して軍事教練をやった ところ彼等には老人が多く六十八歳のものまで隊士に教練されたので笑話が百出したということである。

中間搾取の虎狼

 こうした地主達の官憲の力をかりて行う小作料の取立は既に旧来の地主、小作人間の主従的な封建的関係の消滅せることを 裏書しており、ここには地主の代理人としての租桟の役員や、その下働きをやる催甲(地租や小作米の取立をやるもの)達が、その間にはいって、その手を上下 して中間搾取を擅ままにしている。全く彼等こそ虎狼に類する輩にして地主を嵩にきて小作人をいじめ、地主に対してはお上手をいながら懐中を肥やしている。
 こういった輩は単に地主とつながりを持っているだけではない、彼等は土地の事情に精通しているので地方当局(役人)と関係を結び高利貸、商人の手先きともなる
 一体、支那では列強勢力の浸透によって近代工業の発達がおくれそして一部軽工業部門に工場工業が起っても、それが外国資本によって運営せられる ものが多く、従って収租地主も、その蓄積資本によって商業を営み、高利貸を行い、乃至は旧来官職を買い、またその財宝によって勉学して官吏となり、官吏、 商人は、また土地に投資して地主ともなり、地主、高利貸、商人、官吏を一身につけた三位一体地主が、事実今日なお農村で最も羽振りをきかしている。
 こうした連中が、先きに述べた如き輩を使って農民に対しており農民のすべての行動、措置には早耳として、これが伝達されいわゆる「農村における自治」は美わしい名目の下に、事実は彼等を支配者指導者として行われているのである。

喰われた合作社

 先年来鳴り物入りで国民政府が唱道した農村合作事業の如きも、一九三六年末三万七千余の合作社、百六十四万を超す社員 を擁したとはいえ、その合作社を一皮剥げば眼に一丁字もない社員が四割以上も占め、合作社の管理権は全く少数人士、それも先きに述べたような輩の手に帰 し、かの実験県として知られた河北定県においてすら「合作社の貸付金は、往々土豪劣紳に自借、或は冒名して借りられ、これを高利で貧農に転貸していた」と 報ぜられている。これを一般的にみれば合作社社員のうち中農以下のものが借りられるのは、せいぜい平均二十五元未満であり、極めて少数の富農、地主におい て初めて十分の資金が借り得るのであって、また彼等こそしばしば合作社の理事乃至監事として合作社経営の実権を握るものである。一九三三年十一月浙江省当 局が千三十六の合作社を考査した砌り、合作社に帳簿無きに等しきもの二九%、記帳不明確のもの四二%、両者を合すれば全体の七一%がすでに成績予定の基礎 資料を欠いていた。されば当局の査定でも八〇点以上のものは一%に達せず、七〇点以上のものを合せても六%に足らず、六〇点未満、即ち丁級のものが全数の 六〇%余を占めたのである。これは単に浙江一省だけの事ではなく、一九三五年度に解散せる合作社が千四十八社、翌三六年度千七百社の多きに達せることは正 にこの有力な証左でもあろう。
 以上、私は若干の事例をとりあげて農村の事情の一端に触れてみた。旧い封建的残滓の濃い農村から、比較的近代化したところにあってさえ、わが 国にはすでにすでに消滅したような姿が今もなお支那農村の中に厳存すること、しかも新しい制度が農村に移入せられても、その中身には旧い内容を盛られて来 たこと、そこにわれわれが今後対支諸工作を敢行する餓えにも深甚の注意を払わねばならぬであろうことを付記しておこう。
=天野氏の項終り=

(23) 農村(続き)(上)耕し尽された土地 家族制下の自足経済 小竹文夫

 支那の農村問題乃至農業経済の問題は支那を理解し、支 那社会を研究する上に頗る重要な問題であるが、この方面に関して信用すべき全般的統計が無いため今日なお実証的に、これを究明することが出来ない状態であ る。清朝時代田畝や賦額の統計があり、民国になってからも農商部統計その他があるが何れも信を置き難く、マローン及びテーラー両氏やバック氏などによる農 村報告は、やや信用出来るが、その調査範囲は極めて狭く、これをもって全体の農村状況を推すわけにはゆかぬ。しかし数字的な統計が無くとも古来の文献や地 理学的研究などによって大体の有様は想像出来ぬことはない。

集約的小農経営

 支那は地理学的に日本やインドと同じく高温の夏季に降雨の多い季節風地帯に位している。北支と中、南支とでは雨量に非 常な相違があり、北支は中、南支の三分の一ぐらいであるが降雨の偏度には変りなく一年の雨量の八割以上が夏季に降るのである。暑い時期に雨が多いのだから 植物の繁茂が著しく穀物の収穫も多いのであるが、有用植物とともに有害植物も繁茂するため多くの穀物を期待するためには常に雑草を除去するという苦痛なる 労働を加えねばならぬのである。従って人間が勤勉である限り食糧は豊富で多くの人間を養うことが出来る。支那に限らず東洋一帯に人口が多いのは、この食物 が豊富であったことが一因である。自然上多くの食物が期待出来る地方は、その住民は自ら農業民族とならざるを得ず、かくて支那は日本印度とともに早くから 農業民族として発展したのであるが、しかもその農耕には人間が勤勉に労働を加えねばならなかったから一農夫の受持つ農地は大なるを得ず、このためにも多く の人間が必要とされた。そして、これら相関関係の結果は農業方式が早くから集約的な小農経営になり、黄河流域から揚子江流域や、その他の新天地に植民が行 われる場合でもまた同じ方式がとられた。
 これに反して西洋の気候は季節風的でなく大体に一年を通じて、ほぼ平均に雨が降り夏の方がむしろやや少いようになっている全体の雨量からいっ ても東洋より余ほど少く、従って夏だからといって特に植物の繁茂を見ることながなく、穀物の収穫も多きを得ない。しかし東洋のように播種もしない雑草が自 然に生育するということもないから農耕には面倒な雑草の除去を必要としない。極端にいえば春に種を蒔いて秋にこれを刈り取りさえすればよいのである。だか ら、一人の農夫で比較的広い耕地を受持つことが出来、また広い耕地を受持たなければ十分な食糧を得られぬのである。ここに西洋の農業が自然的に粗笨な大農 式経営にならざるを得ない条件があった。人口もまたそれ自身の収穫では稠密となり得ない。
 その代り東洋では雨の少い秋の末から冬にかけて大地が殆ど枯渇してしまうのに反し年中雨をもつ西洋の地上は決して繁茂ではないが年中緑色の草 に蔽われているのである。従って家畜の飼養には極めて便利であり、東洋の非牧畜的なのに較べて頗る牧畜的であるということが出来る。西洋が牧畜的文明をも ち、東洋が農業的文明をもつというのも、こういうところから来ている。
 しかし農業それ自身においても東洋と西洋とは、あらゆる点において非常な相違を示している。西洋人が東洋に来て最も驚くことの一は、東洋の土 地という土地が殆ど足の踏み場もないほどに耕作され、しかも園芸の如く細密に人間の労働力が加えられている点である。これを一般に東洋的農業と名づけても 差支ないであろう。
 日本は山国であり、支那は平原国だから農業の方法や形態において随分相違があるように考える人もあるが、実際には一様の東洋的農業であって、ただ北支那は陸田が多く穀物の種類が異なる以外、両者殆ど大差がないのである。
 日本は素より今日利用し得べき土地は殆どこれを利用し尽しているのであるが、支那でも、ほぼ同様であって段丘を作って河谷、山腹を利用し随分奥 地に至っても山頂まで耕しているのである。清朝時代にはすでに新彊や蒙古の半沙漠地帯にまで開墾の手を伸ばさねばならなかった。耕作方法も頗る集約的であ り技術的にも各地自然の気候、地味に最も適当したものが栽培せられるほか輪作の方法など百数十種を数え得るのである。
 集約的小農経営においては自作小農が主であって大地主が少く、従って小作農も割合に少いのが特長である。この点、早く封建時代や貴族時代を過 ぎた支那では日本などより更に平等的である。これは支那において不患貧而患不均といった経済的平等思想の発達していたことと共に政治的に井田法以外、限田 法とか班田法など屡々土地の再分配を行ったことや、その他歴史事実において明かに看取されるところである。また財産の相続が分頭均分制であったことからも 十分に類推され、たとい一時的に大地主があったとしても二、三代後には平凡なる一小地主に堕してしまうのである。
 小作農も勿論存在するが小作料が特に高率というわけではなく、小作関係の設定なども寧ろ日本などより進んで文書による契約が多い。国家の賦額 も比較的安く、大体に政府が多くを取上げようとしても農民の方で容易にその負担を肯んぜぬのであった。租税を回避し負担を肯んぜぬものからはなかなか高税 を搾れるものではない。

自食自営の伝統

 かくして支那の農村は伝統的な特殊の家族制度の下に祖先の廟と墓とを中心に自らの力に食み、自らの力による自足的経済 を営み、自分のことは自分で処理する代り、租税も成るべく負担せず、国家に対しても義務を負わず、希うところは子孫を繁殖させ自由安逸に生活を立ててゆく ことであった。官吏が定額外の加税をしたり土匪が金を要求したりすることは心外であったが、これも屡々あることではなく租税の一部と思えば我慢が出来、た だ洪水の時は一寸困るが、そのため平生から準備していたところであり、洪水後の二三年は豊年と定っているから、これも大した苦ではなかった。要するに、か の「四千年の農夫」にいうがごとき牧歌的な、また陶孟和氏のいうが如き詩情豊かな讃美すべき農村ではないが、しかしよくいわれるごとき無秩序で、殺風景 で、ただ土と共に生活しているというがごとき農村ではない。
 私は支那の農村なり、農業問題を専門に研究しているものではないが、文献なり旅行見聞等の上で支那農村の実相として考えているところのものは以上のごとき姿なのである。

井田法、限田法、班田法
◇…いずれも古くから支那に行われた耕地整理の方法で、井田法とは周代に全国の田地を国有とし一里平方の田を井字型に九等分した中央の田を公田とし残る周囲の八つの田は八家に分ち八家共同で中央の公田を耕しその収穫を租として官に納めた
◇…限田法とは前漢代武帝の時井田法も有名無実となり小農の生活は圧迫され田地を売るものが続出した、そこで当時の名臣董仲舒が帝に献言したも の、諸侯吏臣の領有田を限定して田地の売買を禁止せんとしたものであるが、実行には至らず前漢末哀帝の時代に行われたが実施三ケ年にして廃しされた
◇…班田法は限田法の失敗によって生れたもので唐の高祖がこれを実施した、この法は男子が十八歳に達すれば毎人百畝を援給し老人、篤疾者には三 十畝、更にその中一家を構えるものには二十畝を加給し、その十分の二を永業田として子孫に伝えせしめた、なお文中の里、畝は何れも支那単位で六里がわが一 里、百畝がわが一町七段三畝に当る

陶孟和 一八八七年河北省天津県に生る、東京高師卒業後英国ロンドン大学に学び帰国後北京大学政治学教授、一九三三年立法院委員に任命され、同時に南京社会研究学院院長を兼任す、著書に「社会と教育」「社会問題」等訳著も多い

小竹文夫氏 先に本欄に掲載した「民族性論」の著者、同文書院教授

(24) 農村(続き)(中)大半は貧乏線以下 対策 生産力増大と人口制限 小竹文夫

 しかるに二十年前、支那にマルクシズム思想が 入り込んだ頃からいわゆる社会科学者と称する人達によって俄に支那の農村や農業の問題が喧ましく論議されるようになり、多数の著書が出版されて来たそれ等 を見ると大抵は千遍一律であって「支那では少数の大地主が大半の土地を□断しており大多数の農民は、その小作である。しかして小作料は高率であるのみなら ず小作料以外の諸種の貢献を納める義務があり、実に農民大衆は惨酷なる鞭の下に農奴の如き悲惨なる状態に沈淪しているのである。これを救済し、社会を改造 するには土豪劣紳を打倒し大地主の土地を取上げて無地の農民大衆に分配する外はない」というのが大体の論旨である。これを実際の政治運動化しようとしたの が支那共産党であり、武漢政府時代から、その後のソヴィエト区樹立時代には或る点暴力をもって、これを実行したのである。

貧困の裏の一面

 支那の農村は如何にも安易で気楽な生活であったようにのみ見える。しかし外国人でも、日本人でも、支那の田舎を旅行し た人などは大抵の人が支那農村の貧困なことをいい、実際にも随分悲惨な生活をしている地方がある。但し、これもよほど注意すべき点があり、とかく異民族の 生活を見た時は自己よりやや高度だと頗る高度に見え、少し低度だと頗る低度に見えるものである。満洲の田舎を旅行すると如何にも貧弱な農村のように見る人 が多いが、実際には必ずしもそうでなく、却ってその富は日本のある地方の農村などより遥に高井のである。先年松花江の大水災の折その惨状は随分ひどいもの であり、罹災民も可成り多かったので満洲新政府ではその仁政の一端として一千二百万元を支出して麦粉を購入し、これを罹災難民に分配したのである。巨額の 麦粉を購入するので哈爾浜取引所の麦粉の値段が昂騰するが、いくら買ってもどんどんどこからか麦粉が出て来る。そこでその出所を調査したところ、なんと罹 災民自身が、これを出していたのである。水災に遭ったら直ぐ支出をして救済せねばならぬのと異って、貧弱そうに見えても支那人はこういう芸当をする余裕を 有っているのである。これは華洋義賑会等が支那内地に屡屡起る大洪水とか、饑饉救済の場合にも、よく見られるところである。

一人当り所得僅少

 しかし一般的に見て支那の農村は江蘇とか、浙江とか、江西等の農村以外は、今日の日本農村より貧弱なようである。殊 に西北地方とか、西南とか辺境の方が低度である。既述の如く集約的小農経営においては元来直接的食糧自身が多いことと、著しく土地に定著的なること、多量 の労働力を必要とすること等のため人口が稠密になる傾向があり、特に支那の如き特殊家族制度の所においては、この傾向が強く、このため開墾し得べき土地を 殆ど開墾し尽し、農耕方法も著しく集約的ないはば農業生産力が相当に上っている支那であっても、一人当りの所得は、とかく多きを望み得ず、更に収穫逓減の 法則および不良の土地をも開墾せねばならぬための相対的収穫僅少と相俟ってはいよいよ所得が少く所謂過剰人口の現象を見るのである。

平等分配論の難点

 マローンおよびテーラー氏の著書にも農家収入の調査があり、その他北京大学、清華大学、嶺南大学等でなされた生計調 査があるが、支那農村の一戸五人平均の一ケ年間の全収入北支において百五十元、中南支において二百元を最低生活費、所謂貧乏線とすると北中、南支ともに、 この貧乏線以下にある農家の数が大半をしめているのである。尤も生計調査は、その正確を期すること最も困難なもので、これ等の調査に如何ほどの信を置くべ きかが問題であるが、農家の所得が概して貧弱であることだけは推想し得る。しかして北支において百五十元の所得を得るには三十畝(一畝は二百坪ぐらい)あ まり、中南支で二百元の所得を得るには二十畝以上の土地を有たねばならぬのであるが、今日北支の農家一戸当り平均の耕地は普通に二十三-四畝、中南支にお いては十七-八畝といわれ、これが事実に近いものとすれば土地の再分配によって完全に平等的に分配出来たとしても今のままの生産力においては北支、中南支 いずれも貧乏線以下の所有であって全支那の農家をことごとく貧乏線以下に追いやる以外何等支那の社会を救済し福利をもたらすことはないのである。ここにも 平等分配論の難点が存する。
 従って支那の農村を救済するには現在以上に、その生産力の増大を期するか人口を制限して一人当り所得の増加をまつか乃至は農業立国より他の商 工業に転化するかのほか無いのであるが、生産を増大するための土地は墓地の整理とか、分散せる小農場の整理など、なお幾分開墾の余裕が残されたるごとくで あるが、繰返し述べるがごとく開墾し得るものは、ほぼ開墾し尽しているのであって、その余裕は決して多くを期待し得ない。墓地面積は可成り広いようである が、今日全耕地の約三パーセントと見積られているに過ぎぬ。

(25) 農村(続き)(下)改善は難しづくめ 商工業国転化も不可能 小竹文夫

労働の供給は人口衆多にして、かつ勤勉なる支那農夫に あっては、土地に対して十二分の労働をこれ以上に期待することはむずかしい。残るは資本の問題であるが、支那の如き平等主義小農経営のところには大資本の 集積あることなく、しかも資本投下によって農業生産力を増加せんことは支那においては特に巨額の資本を必要とするのである。まず農産物の出廻りを滑らかに するためには大規模の交通網を作らねばならず、頻繁なる洪水を治めるため大規模の堤防を築造する必要があり、これは支那の土壌の性質上極めて巨費を要する ことであり、しかも築堤と同時に灌漑および排水の設備を十分に行わねばならず、これまた支那の地勢上頗るの難事業である。雨量の少い北支においては無数の 井戸を掘らねばならず、更に従来洪水によってなされた一種の施肥作用が無くなるから地力を保持するためには多量の人造肥料を必要とするであろう。これ等の 施設によっては、元より今日より生産力を増すことが出来るであろうが、何処かに幾十百億かの遊資でもあれば別だが、しからざる限りなかなか困難な点があ る。

悪劣な土地も開墾

 支那の農業は現状においてはほぼ十二分の生産力を挙げているのであって、全体の平均収穫において欧米などに劣るは、 欧米では良地のみを選んで耕作し、しかも十二分の設備と潤沢なる人造肥料を与えているのと、支那は欧米などでは到底見向きもしないような悪劣な土地をも開 墾しているために外ならぬ。支那でも良好の土地、例えば揚子江流域の米作地とか西北支那の玉蜀黍地などでは、日本に劣らぬ米収穫とアメリカの二倍に当る玉 蜀黍収穫をもつのである。単純に一寸力を入れれば支那の生産力は直ちに二倍にも、三倍にも出来るなどと考うるのは大間違いである。
 先般も日本から中支に来たある技師から中支の墓地を崩して江南一帯のクリークを埋める説を聞いたが、これも揚子江流域利用の歴史と、極めて排 水に困難で、ややもすると多雨期に白水の状を呈する江南の地形を知らぬからのことである。昨年の六月にも白水になり江南一帯低地平原の三分の一以上が野と いわず道路といわず、見渡す限り一面の湖水になった。しかのみならず利害打算的であり、無宗教的であるといわれる支那人に殆ど最後の宗教的中枢として残さ れた墓場を、僅の収穫を挙げんがため無碍に取壊さんとする如きは、ただに支那人の憤りを受けるのみならず、打算的なりという人間が、より打算的であること を示し大きな道徳的社会の建設を理想とする大民族の俄になすべきことではない。
 支那が商工業国になることは必ずしも不可能ではないが、今日幾多の先進工業国が存在して支那とも密接な関係をもっており、また支那自身は飽くまで農業的、原料国的特徴をもっているので、この転化も実際には甚だ困難というよりむしろ不可能に近い。

人口制限に二論派

 最後に残されたのは人口の制限問題であるが、これについては今次事変前、支那の学者の間に二派あり、猛烈な論争が続 けられていた。翁文●とか、丁文江とか、陳長衛といった比較的真面目な学者は、支那は地大物博をもって由来誇称しているが実際には必ずしもそうではなく、 殊に今日の如き人口衆多をもってしては民度を高めることは到底不可能であるばかりでなく一切の社会悪、社会苦もこれから出ている点が多い。ゆえに今日、支 那を改造し、社会を救するには人口を制限することが最良の方策であるというのがその論旨である。これに対する反対論者は蕭錚など、またかの社会科学者とい われる一派の人で、支那の人口衆多は、ただ東南沿岸地方に見られる現象に過ぎず、西北一帯には広大なる土地があり、人口は極めて稀薄なのである。ここに開 拓を行えば、なお多くの人口を包容し得るのであって、産児制限論者の如きはただ支那民族の滅亡を教うるに過ぎぬものと反駁していた。

量的発展質的低落

 思うに、支那人は一人当り所得の少い中からも、なお一民族で世界全人口の四分の一近くにまで発展したほどの民族であ る。そして民族としての量的発展の反面には質的には随分悪劣な状況にも堕したことは事実で、この儘にては如何に生産力を増しても、幾分でも余裕のある限り 低度の生活において忽ち人口がその上を蔽うてしまうこと必定である。かくては永久に支那民族の生活が今日より向上しないのみか、悪劣なる方面も亦永遠に地 球上に続くのである。私は支那民族がもつ一種の同化力の如きも、その高い道徳的力のためではなくて、寧ろ彼等がもつ悪劣なる誘惑力乃至環境のためであると 思っている。所謂、憎まれ子世にはびこるで、正直で純情な民族ほど彼等の前には太刀打出来ぬのである。猶太人がもつ力も、かかるものである。もし何等の阻 止が無かったら地球上には遂に支那民族と猶太民族とばかりになって他の民族が消滅するかも知れない。私は、かかる民族が多数出現することは人類にとって余 り好まぬことだとさえ思うものである。こんな意味からも、また実際支那人の幸福のためからも寧ろ翁文●一派の所論に賛成するものである。=小竹氏の稿終り =

(26) 租界(上)旧来の支那と隔絶 畸形”租界人種”を生む 植田捷雄

租界の明暗二相

 租界が今日の支那人に対しその生活の上において、またその思想内容において如何なる影響を及ぼし、如何なる関係を持つ かを考えて見たい。それは明暗二相を持つといえるのであって、先ず明朗な方面では支那人の欧米化ということがある。上海、漢口、天津、広東等、凡そ支那に おける要地を占める租界に進歩せる欧米の行政制度が輸入され移植されたことが、従来政治的訓練に乏しかった支那人に絶大なる模範標準を与える結果となった ことは否定し得ない事実である。租界行政は他の支那内地における地方自治に優ること万万であって、近来、欧米化の道を辿りつつあった支那の地方都市が、そ の範の大半を租界に求めたことは、やむを得ないところである。租界には、かくの如く各本国の政治制度が反映され多くの欧米人が移住し、これと共に彼等の文 物習慣があらゆる方面にわたって輸入されたのは当然の結果である。難しい法律上の議論はともかくとして、租界が実際上、外国文明を盛れる都市と化し宛も外 国領土の外観を呈するに至ったことは怪しむに足らない。そして租界内に蝟集する無数の支那人が、かかる強大なる外国の勢力下に生活して、その影響を蒙らぬ 筈はない。即ち、これが「租界人種」ともいうべき支那人の産れ出た所以であって、一面、因循姑息をもって知られる支那人の中から極端な欧化狂の一団が現れ た理由である。

上海の描く怪奇面

 試みに上海の租界に一歩を進めると、そこには全く旧来の支那とは隔絶された、寧ろ奇怪ともいうべき新支那(?)の社 会が展開される。祖国は今壊滅に瀕せんとする未曽有の危機だといわれるのに、ここ租界内のダンスホールは毎夜モダン男女の支那人で身動きもならぬ盛況を呈 し、欧米風を気取ったカフェー、バー、レストランは、それぞれ有閑支那人の巣と化し、また輸入賭博のハイアライ、カニドロームに憂身をやつすのも大半は支 那人であり、好んで外国映画館に集まり人前もはばからぬ奇声を発して英語のトーキーに打興ずるのも支那人以外には見られず、その他競馬場あり、ゴルフ場あ り、音楽会あり、凡そ欧米気取の娯楽機関は備わらざるなき有様で支那固有の文化は先ず打忘れられた感が深い。日本でこのごろ問題となっている雀の巣のよう なパーマネントの如き、上海ではすでに四、五年前に流行したところであり、支那服に絹のストッキング、ハイヒールの洋靴という女性の姿はスマートといえば スマートでもあろうが、これが租界人種の特色でもある。それに街を歩いて驚くのは横文字の看板が圧倒的に多いこと、ショウ・ウィンドウに飾られた家具調度 までが華洋折衷であり、少し気の利いた店ではいわゆるピジョン・イングリシュが幅をきかし、下手な支那語でも使おうものなら相手にされないことである。流 行といえば欧米化を意味するといっても過言ではあるまい。そして上海が、その先駆模範となって支那内地に浸み込んで行く。誠に恐ろしい現象である。かくて 支那古来の落つき、渋みはだんだんとうすれ後に残るのは軽兆浮薄な欧米模倣のみである。同時に、かかる雰囲気の下に欧米留学帰りが求めて居を占め、また幾 多のいわゆる「欧米派」が養われ行くことも否定し得ざる事実である。更に一方においては、かかる支那人の文盲的欧米化の虚に乗じて欧米資本主義の進出発展 は目覚しきものがあり、これに反して支那の国内産業は徒らに衰微敗退の途を辿るという現状である。結局、支那人の欧米化も、それが適度の吸収ならば支那人 のため進歩の一階梯として喜ぶべきところであろうが、今日の如き実情では寧ろ欧米の蚕食を助けるものとより考えられず、租界の存在は害あって利なきものと いわざるを得ない。

カニドローム 犬の競馬ともいうべきもので、数頭の犬に競走をさせ、競馬と同様なやり方で金をかける賭博である、支那人は賽狗園と呼んでいる、上海だけにあるもの

ハイアライ(Hai-a-lai)はスペイン語で、支那語では回力球(ホイリーチュー)といわれるスペインの遊技である、五名の選手が壁面に固い 球を打ちつけ、次々に点数をかせぎ合うもので、これに観客が競馬と同様の方法で金をかけるのである、ハイアライは世界に数ケ所しかないがその中二つが支那 にあり、上海と天津に開かれている

植田捷雄氏

東京帝国大学法科を卒業後大阪毎日新聞社に入り東亜問題を研究、その後上海東亜同文書院助教授、教授となり「支那外交史」 「支那租界」を専攻し、現地にあってこの研究に没頭した、その集積として「支那租界論」を公刊し、同問題については権威ある少壮学徒である、数年前東亜同 文書院教授を辞任、東方文化学院研究員となり、最近は外務省嘱託を兼ね、事変下租界問題の紛糾せる折から、この方面に活躍している、氏は前記「支那租界 論」のほか最近発行の「在支列国権益概況」の諸著書がある

[写真あり 省略]

(27) 租界(中)民族を蝕ばむ存在 不逞分子の“安全地帯” 植田捷雄

内乱、戦争に別天地

 また、租界は支那人にとってその生命財産を保護するに絶好の場所だともいわれる。租界はもともと外国人の専用地域 として認められたものであるが、屡々の内乱、戦争にあたって安全地帯を持たない支那人は租界内に避難流入し、租界当局またこれを黙許したため租界内に居住 する支那人は漸次増加し今日では外国人に比し圧倒的多数を占める状態となっている。これを上海に例をとって見るに、上海を舞台として従来行われた内乱、戦 争は相当の数に上る。即ちその最初は一八五四年に長髪賊の乱の影響が上海に及んだ時にあるといわれ、爾来、一九一一年の第一革命、一九一三年の第二革命、 一九二四-二五年の蘇浙戦、一九二五年の五州事件、一九二七年の国民革命軍の上海攻撃、それから先年の上海事変、また今次の支那事変等主なものを拾っても 十指を屈することが出来る。これ等の場合租界はどんな状態に置かれたか租界当局は一種の戒厳令を布き、租界義勇隊や警察隊の動員を行い更に外国軍隊の救援 を求め、租界境界線や主要道路にはバリケードを張り繞らして租界の警備を固めた。また、第二革命の際には革命軍の将陳其美が租界隣接の閘北にその本拠を置 くや、租界側は租界の安寧に害ありと称して租界の義勇隊や警察隊を租界外にまで派遣して陳軍を追い払ったことがある、或は蘇浙戦や国民革命軍の上海攻略の 時などには逃げ込んで来る支那兵を租界境界線で武装解除しこれを一時抑留した上、租界外に追放した例もある。更に、同じく蘇浙戦の折には浙江軍に属する徐 樹錚が共同租界内で敗兵の集結を策したという廉によりその滞在を拒まれ香港に送られたという事件もある。近来はこの傾向が一層強められ、内乱や戦争のない 平時でさえ武装支那兵の租界内通過は禁止せられ外国軍隊はそのまま駐屯し武器弾薬の租界を通ずる輸送も許されない。こんな事実が結局、租界当局に租界中立 の観念を植付けるに至ったもので、今度の事変にあたっても屡々中立を理由にわが国に楯ついたのはこれがためである。随って、内乱や戦争の際、租界が別天地 を画することは確であり、これにより支那人がその生命財産を保護し得ると考えるのは一応尤もなことである。租界に支那の富裕階級が集まっているのもこの影 響である。しかし租界内の実相は必ずしもかれ等の予想通りのものではなく、果して支那及び支那人のため有利なものであるかどうか、相当問題の存するところ である。それは租界が外国の支配下にあるだけ、右にも述べた通り祖国は未曽有の事変に呻吟しているというのに、享楽を追うて狂態を曝す支那人の一団を産み 出すに絶好の場所を与えるということにある。

身勝手な「租界中立」

 また、むしろ租界は悪の巣窟であり兇悪な犯罪の跡を絶たず決して身の安全を期し得るところでないことは後に説明 の通りである。更に、如何に租界の安全のためとはいえ、支那の領土の一部を外国が勝手に中立と称して支那の軍隊さえ通過を許さないことは支那にとって甚だ 迷惑至極であるばかりでなく、支那の主権に対する侵害だともいえる。殊に、租界当局のいう中立は決して厳正なものではなく、かれ等の政治的利害に基く御都 合主義によるものであることは実際がこれを証明している。例えば曽つては徐樹錚の滞在を拒絶した租界当局が同じく蘇浙戦の時、盧永祥の逗留に対しては黙過 したという事実があり、また第二革命の際には陳其美軍を閘北から駆逐しながら今次の事変にあたっては閘北に陣地を構築する支那軍を現実に見ながら、これを 放置したことも忘れられない。もっと重大なことは租界の中立を叫びながら、租界を援蒋排日の策源地に提供し、排日共産分子の跳梁に任せたことは何としても 黙視出来ぬところである。結局、租界は亡命政客の隠れ家ともなり、治安攪乱分子の根拠地ともなり、却って内乱戦争を助長する媒介物なりといわざるを得な い。かくては時局に乗ずる不逞支那人にとってはともかく、善良なる一般支那人に対しては租界はかれ等の生命財産を保護する安全地帯とは決していわれないの である。
 租界はかくの如く、表面支那人にとって欧米の文化を吸収し、またその生命財産を保護する地点だと一般に考えられているが、実際はこれに反して 支那人を毒すること大なる存在だといいたい。更に進んで、次には議論の余地なく租界の暗黒面と称せられる悪の自由について筆を染めよう。

陳其美 支那革命の先達、日本に留学中、中国同盟会に加盟し、帰国後各地を遊歴して革命思想を鼓吹す、清末武昌の変起るや宋教仁等に託せられて上 海独立、江南機器局占領に尽力、上海郡督に推さる、第二革命の際孫文、黄興を助けて袁世凱打倒運動をなし、失敗後日本に亡命、その後各地の革命運動に参加 一九一五年上海に帰り対袁運動計画中暗殺された、上海の財界に勢力があり、蒋介石は陳其美に非常に助けられた、陳立夫、陳果夫の伯父である

(28) 租界(下)祖国の危機も忘却 軽佻浮薄の“租界人” 植田捷雄

警察連絡の不徹底

 一体、租界が特に選ばれて犯罪の温床、陰謀の策源地となるのは勿論、租界が政治上、経済上重要なる都市を占めること にもよるであろうが、何といってもその根本の原因は租界自体の複雑な行政組織にあるものといわざるを得ない。例えば上海の場合を挙げて見るに、上海にはい うまでもなく共同租界と仏租界がある。ところが、この二つの租界が上海の行政を全体としてどれだけ不統一、乱雑ならしめているか分らない。即ち同一都市内 に国際的に管轄を異にし、それぞれ別個の法令を有する両租界及び支那街の三独立行政区域があり、しかもこれ等の間には何等の自然的境界なく、僅に街路一つ によって区画されるという有様である。一般にエドワード七世路として知られているのが両租界の境をなすものであるが、この道路が西方に延びるとフォッシュ 路と称せられ英仏両国の明君、英雄が仲よく名前を連らねているのも上海らしい風景であり、両租界のバスがそれぞれ特色を誇示して走っている。とにかく、こ んな実状が三行政区相互の警察連絡を頗る不徹底ならしめているのは事実であって、三区中の一区に居住する犯人が他区において犯罪を行うような場合、その予 防乃至逮捕は殆ど不可能に近いものとされる。また、一区に発生せる犯罪に対して他区の警察が全然無関心の態度をとることも屡々見るところである。加うる に、在留外国人に対する法律の適用関係は甚だしく複雑である。更にまた、犯人検挙の第一線に立つ下級警察吏が共同租界でも仏租界でも各国人によって組織せ られ言語、風俗を異にすることも連絡提携の不十分なる一因となる。これ等の事情が一丸となって上海における警察能力を低下せしめるのは当然のことであり、 それだけ上海が犯罪の温床となるのは怪しむに足らない。
 一方、共同租界においては英米人、仏租界においては仏国人がそれぞれ自己の独占的勢力を維持せんがため租界の行政組織を頗る偏頗不公平なるも のたらしめたことも租界警察の無能を示す原因となっている。租界は支那の領土の一部でありながら、支那人は永年の間租界の行政に参与することを許されな かった。それどころか支那人は欧米人から動物扱いを受け、最近に至るまでジェスフィールド公園その他の人口に「犬と支那人入るべからず」の制札が掲げられ ていたことは有名な話である。支那人は租界内人口の圧倒的多数を占めるにも拘らず、徒らに税金を搾り上げられるのみで、大半植民地流浪の成り上り者といわ れる欧米首脳者の無法に高い養老費を献納するに過ぎなかった。それが今日では多少改良されたとはいえ、この憐れむべき状態は依然として脱しきれない。こん な空気が租界警察の組織にも及んでいることはいうまでもない。即ち、支那人その他の東洋人は主として下級警察吏に廻され、高級幹部はすべて欧米人の占める ところである。ところが、これでは租界内居住者の大半を擁する支那人に対して適当な警察行政が施かれる筈はなく、支那人との間に十分な警察上の連絡をとる ことは到底不可能である。ここにも租界が予て有効なる犯罪の検挙を期し得ざる大きな原因がある。

悪の温床・賭博公認

 そして最後に租界の悪にとどめをさすものは租界における賭博の公認制度であろう。仏租界に瀟洒たる設備を誇って毎 夜盛えるハイアライとカニドローム(競犬場)がそれである。而も仏租界はこれ等から所謂寺銭をはねその主要財源の一としていると聞いては唖然たらざるを得 ない。共同租界にもかつて二つのカニドロームが公認されていたが、一九三一年以来閉鎖されている。併し、それは名のみであって、今なお租界内に非合法な賭 博が公然の秘密として横行しつつあることは何人も認めるところであろう。三歳の童子が路上に銅板を投げ合って平然と勝負を争う様は到るところで見られる異 風景である。菜館、茶館、飯店等には夜を篭めて麻雀牌の騒音、支那拳の奇声が溢れ喧囂を極めているが別段これをとがめるものもない。もって賭博横行の実相 を察すべきである。更に恐るべき結果はかかる賭博が単なる賭博に終らずして賭博を繞り、阿片の吸引、売買、私娼の跋扈、人掻い、殺人、ピストル強盗等あら ゆる犯罪が醸成され行くことである。「賭博は犯罪の常備軍を作る」というのが正にその通りであって、上海の悪は誠に奥底知れずむしろ恐怖すべきものがあ る。而もなお、租界警察は上述の如くその組織、素質において本来無能力に近きものがあり、加うるに支那街は勿論、租界についても支那人の移動を監視すべき 完全なる戸口調査の整備を見ざる以上、犯罪防遏に対する武器を失えるに等しく、全く悪の自由は租界の悲しむべき特色とさえ考えられる現状である。従って広 く各地の無頼漢は悪の自由に憧憬れて租界に集り来り、益々租界をして犯罪の世界的巣窟たらしめる。ここに青幇。紅幇等の親分が租界行政に対してまで陰然た る勢力を振う原因があり、金銭一つで如何に兇悪なテロさえ平然とやってのける下手人をかねて養成する結果ともなるのである。支那事変の発生以来、頻々とし て起る租界内における排日テロ事件の如きもこれ等無頼漢の背景なくしては到底あり得ざるところである。かくして租界は支那人を性根より腐らして行くのみな らず、これがため一般居住外人がどれだけ不安を感じ恐怖にたたき込まれたか分らない。殊に今次の如き事変にあたって租界当局自ら進んで紛争の渦中に飛び込 み、租界をもって援蒋排日の根拠地たらしめ、国際治安を紊すに至っては言語道断である。租界は元来、外国人の安居楽業を目的として設けられたといわれる が、今日の実情をもってしては正にその逆を示すものである。

正に帝国主義の遺物

 要するに、租界は支那人にとって欧米の政治文化を与える媒介地であり、支那人の生命財産を保護する安全地帯である と考えられたが、今日の実情は全く予想を裏切り百害あっても一利なき存在となっている。遠い過去の問題はともかく、曽つて清朝が外国人の居留を許したのは 支那が彼等に課した不平等待遇の反動であったといわれるが、今は地位の逆転を認めざるを得ない。のみならず、欧米文化の甘味に眩惑された支那人は支那固有 の文化を打捨てて顧みず、唾棄すべき軽兆浮薄な「租界人種」となって現れ、賭博、阿片、女と悪の自由に耽溺して祖国の危機をも忘れる憐れむべきものとなっ ている。租界は陰謀の策源地、犯罪の巣窟と化し、租界当局はこの虚に乗じて租界の中立を主張し正に領土侵略の寸前に立てるものといわなければならぬ。支那 人を毒することこれに優るものなしというべく、租界は正に帝国主義の遺物たるに外ならない。最早、支那人は租界に依存すべき何等の理由を持たない。然る に、如何に「溺るるもの藁をも掴む」の例ありとはいえ、蒋政権が租界を抗日の根拠地とし、租界を通じて欧米の力を籍りんとするが如きは、支那を亡ぼし進ん で墓穴を掘るに等しきものといわざるを得ない。東亜の新事態に即し真に目覚めた新興支那はかかる亡国的政策を飽くまで排撃すべきであり、租界はすでに支那 人にとって無用の長物となり終れることを深く悟るべきである。=植田氏の項終り

(29) 女(上)驚くべき“爆弾細君” 民族性の機微茲に 米内山庸夫

叫街

 昭和六年九月十八日、柳条溝において鉄道が爆破され満洲事変が火蓋をきった時、支那政府は日本を対手とするよりも、それよりも迅 速に、そうして巧妙に世界を対手としていた。当時たまたま開かれていた国際聯盟会議において支那代表が巧に機会を捉え、これを世界に訴えたことは周知の通 りである。支那は日本を対手とせず世界を対手とした。そうして世界の力で日本を屈服せしめて自らいい子になろうとした。
 支那人が夫婦喧嘩すると、細君が街頭に出て夫の非理非道をまくしたてる。「みな聴いてくれ、うちの亭主がこの通りだ、どっちがいいか、悪い か、このあたしが可哀そうじゃないか」と街の大衆に訴える。そうして大衆の力で亭主を抑えて自分がいい子になる。亭主が何かするとまた街へ出て叫ぶぞとい う叫ばれては面子にもかかわるし、まあまあとなだめて亭主が屈服する。
 女が街頭に叫ぶ。広東に叫街という言葉がある。これである。釈迦も基督も街頭に叫んで道を説いたけれども、支那人は街道に叫んで対手の非理非 道をまくしたてるのである。支那人が喧嘩する。その二人のぐるりを大衆が取巻く。一人がその大衆に向って対手の非理をいう。そのつぎに他の一人がまた、そ の大衆に向って対手の非道と自分の如何に正しいかをいう。そうして大衆の判断で勝負を定める。支那人の喧嘩を分析して見ると多くの場合に於て、こうした要 素を含んでいる。支那人の女は、その亭主の悪口さえ街頭で叫ぶのだから、支那人の女の亭主たることまた難いかなである。事は支那人の女の亭主ばかりでな く、支那人を対手とするすべての人々支那人を対手とするすべての国々に対しても同じことがいえる。だから、満洲事変が起ると、あっという隙もなく支那は世 界の街頭で叫んでいたのであり、芦溝橋事件が発生すると直ぐに、同じく世界の街頭に叫んだのである。そうして世界列国の力で対手を制えようとした。女が街 頭に叫んだ場合、支那人の男は大抵屈服するが、支那が日本を支那人の亭主と同様に見たのが抑もの誤りであり、その結果かえって事件を拡大せしめ今日の状態 を来たしたとも考えられる。

怕老婆

 支那に怕老婆という言葉がある細君をこわがることをいいあらわしたものである。何かといえば街頭へ出て叫ぶ。細君が街頭へ出て あること、ないこと並べたてられては、亭主の面子というものは丸潰れである。面子が潰れては立つ瀬はない。細君をこわがらざるを得ない所以である。支那人 の細君の抵抗は積極的であり、自発的であり、暴露的である。こうした女を妻としている男は、全く爆弾を抱えているようなものである。戦戦兢々として、その 機嫌を伺わなければならない。動もすれば爆発する。その細君が爆発したら、いかなる英雄豪傑もどうすることも出来ない。平身低頭ひたすらに謝らざるを得な いのである。百万人を坑にする英雄も、千百城を陥る豪傑も、その細君の爆発に対しては、どうにもしようがないのである。だから昔から女子と小人は養い難し という。今も昔も怕老婆たることは変りはないのである。
 しかも支那人は、この「どうにもならない」爆弾の細君をさえ巧に操縦して行くのである。しかし支那人の生活は怕老婆であるが、単に老婆を恐がるのではなくて、その恐い細君を巧に操縦して完全にわがものとして行くところに、その民族生活のコツがあるのである。
 日本人と支那人と比較して見て、その国民性の相違の第一に考えられることは、日本人の短気で、ありのままで、そうして怒りっぽいことと、これに 反して支那人の気長で腹の底が知れなくて、そうして大勢順応的であることであろう。強いものを怒らさないで巧にこれを引っぱって行くことに支那人得意の腕 があり、いかなる場合にも隠忍して生きて行くところに支那民族の粘り強さがある。支那人はいかなる難物をも、これをうまくなだめて操縦して行くところに誠 に天性ともいうべき得意の腕を持っている。強いもののいう通りになるような風をして、実はその強いものを引っ張って行くことの巧さ、人に物を頼むときの真 にせまる巧妙さ、嫌がる女をさえ何とかして物にして行くことのうまさ、支那人生活の表裏を見ると、ありのままにして単純な日本人の生活から見て、まことに 驚くべき世界である。柳の枝に雪折れなしという。この支那人の大勢順応性と、そうして、さらに悍馬さえも巧に御して行くような柔中の剛ともいうべき操縦の 妙と、その強さ、それは、あの爆弾のような妻を抱えて、しかも巧にこれを操縦して行く支那人常住の生活を思えば当然過ぎるほど当然なことである。爆弾の細 君を懐柔して楽しんで行ける生活、養い難き小人をさえ巧に操縦して養って行く生活、これを操縦と見れば巧なる操縦であり、包容と見れば偉大なる包容であ る。いかなる場合でも隠忍し、すべてを押しかくして服従する如く見せ、しかも、これを慰撫懐柔してわがものとして行くところに偉大なる支那人の亭主の力が あるのである。このことは一般に支那人の男に対してもいえるであろうし、また支那民族が他の民族に対する場合も同じことがいえるであろう。

米内山庸夫氏

上海東亜同文書院卒業後支那および満洲各地に勤務し多年にわたり支那人および支那生活を体験し、支那人間にも知己が多い、 支那蒙古方面に領事として任についた人であり目下外務省文化事業部の重鎮として日支文化の融合提携による両国親善関係の促進に努力している、「蒙古」その 他の著書もあり有数の支那通である

(30) 女(中)お針などは女の恥 賞めたら失礼 “奥さんの手料理” 米内山庸夫

女尊男卑

 その社会状態から見ると、支那は男尊女卑の国のように見えるけれども、しかし実際内輪から支那の社会をのぞいて見ると、支那 ほど女の権力の強い国はないようにも想われる。支那では男に対する女の支配力は絶対である。だから傾城傾国でもあり女王でもあり、暴君でもあり、そうして 男性を支配する一切のものである。西洋では表面は女を極めて大事にするけれども、実際は果して何うか。支那では男が女を殴るなんて、それは天がひっくりか えるほどの大事件なのだ。女を殴ったら、その男は、もう世間に顔出し出来ないほどのわからずやにせられる。女と喧嘩したら男は当然負ける筈のものである。 喧嘩しないで巧に女を操縦して引っ張って行くところに男の腕前があるとするのである。
 そういう支那の女である。女は男の歓楽の対手になるか、そうして男を顎で使うかであり、男のために働くなどということは毛頭考えていないので ある。だから、支那の女学校では何処の学校でも女に裁縫とか、料理とかいうようなものを教えないのである。日本の学校でそういう家政的な科目のあることを 支那の当局者は百も承知であり、日本を視察に来たりして、そういうことを感心した様子で聞いてはいるけれども、決してそれを支那へ持って行って実行しない のである。日本の社会と支那の社会とは違うし、支那の女は、そんな家庭的な生やさしいものではないと考えているのである。支那の女は、自分の夫や子供のた めに著物を縫ったり、料理を作ったりするなどということは、てんで考えていないのである。家は大工が造ると同様、著物は裁縫職人が作るものであり、料理は 料理人が作るものであると考えているのである。料理人がいなかったら「亭主が作れ」とさえ考えている。実際、亭主が市場から肉や野菜を買って下げて来る図 は支那でよく見るところのものである。細君が料理するなんて奴隷じゃあるまいし、それは女としての魅力のないもののすることで、女の恥だとさえ考えてい る。そういうことは身分の低い、そうして十人並以下の女のすることで、女として奴隷的価値以上の何ものもないもののすることであるというのである。女なら 女らしく男を支配せよ、顎で男を使え。それは当り前であり、女と生れた果報だと思うている。こうして、面白いことは支那人の男も、それを承認していて女の 前では頭が上らないことである。

尊大を愛する国民

 日本では細君の手料理ということは、客を歓待する親しみを表わす一の慣習となっているのであるが、この習慣をよく知 らない支那人に、細君の手料理などといって御馳走したら、第一に軽蔑せられ、それから信用を失って商談なら取止めなどということにならぬとも限らない。尤 も支那でも親しみを表わす意味において家庭料理で歓待することはあるけれども、この時は、客は、その抱え料理人の腕と材料の良さとを賞むべきで、仮りにも 日本風に「奥さんが御料理が上手」などと賞めてはいけないのである。事実、その奥さんは多くの場合、奥で麻雀をやっているのである。
 最近広東婦女視察団の一行が東京へ来た。東京の名流婦人の集まりである某婦人会で、これを接待し、その一行の百貨店での買物などに際しても、 その婦人会に属する名流の御婦人が東道して買物の世話までしたということであるがその婦人会の歓迎は大変結構だと思う。ただ支那では、こういう場合市井の 世話などは決して名流の婦人はしない。また名流の婦人ともあるべきものは、そういう末稍的なことに気がきいたり、世話を焼いたりすべきものでないと思うて いる。歓待はし、出来るだけの好意は示すけれども、そうした下世話は自ら指図して下のものにさせる。それがいいか、悪いかはわからないとしても、兎に角そ ういう習慣である。名流の婦人が市井の買物などの下世話をするのを見ると、支那人は軽蔑する。「あれは名流婦人とか貴婦人とかいっているけれども、身分が 低いだろう、出が卑しいだろう」と、こう考える。無論、天性社交的な支那婦人は、そんなことは色にも出さないのであるけれども、日本のことを知らない人々 はそう考える。国民性の相違であり、習慣の相違である。これを改めさせることも困難であるし、また、よく理解させることも困難であろう。対手を見て法を説 くべきである。支那人は非常に尊大な国民であり、尊大を愛する国民であり、そうして対手の尊大なることを畏敬する国民である。支那人に対して余りチョコ チョコすると軽蔑さるれ。

[写真(筆者…米内山庸夫氏)あり 省略]

(完) 女(下)置き忘れた純情 墓を乾かして再婚を急ぐ 米内山庸夫

歴史が変る

 クレオパトラの鼻が、もう少し曲っていたら世界の歴史は変っていたであろう-といわれるが女が男を支配し、その男がまた天 下を支配する場合には、たしかに歴史は変る。支那においても、その例は少くない。姐己は殷の紂王を支配し、紂王は悪政の限りを尽して殷は亡び、唐の玄宗は 楊貴妃に溺れて蜀に蒙塵し、西太后の大奥政治は終局清朝滅亡の一因をなし、宋美齢は蒋介石を容共抗日に引っ張って国民政府倒壊にまで至らしめた。宋美齢の 肌が、もう少しざらざらしていたら日支関係が今日の土壇場にまで来なかったかも知れないといわれる。
 殷の紂王は姐己を溺愛して姐己のいうことは聴かざることなかったという。宮女七十二人に●盆の刑を施し、蛇蝎蜂●の群衆する穴の中に投げ入れ て、これを殺し、梅伯を炮烙の刑に処し、また酒で池を造り宮女を裸にして乱舞せしめ、所謂酒池肉林の会を催し、さらにまた昼は終日眠り、夜は徹宵宴をなし て、これを長夜の飲というた。者の細君であったり、後室であったりする場合は益々ひどい。ややもすれば国を誤る。その著しい例は前に西太后あり、後に宋美 齢がある。西太后は何といっても一の女傑には違いないが、その余りにも激しい家族迫害が却って清朝の衰亡と民国革命とを早める素因を作った。光緒皇帝を守 るための保皇党、これに関聯して起った戊戍の政変、保皇党と同盟会との対峙、こうしたことが結局、民国革命の勃発を早めたのである。宋美齢は天生の麗質 と、そうして聡明の美しさとを持っているといわれ次姉宋慶齢(孫文の未亡人)は中国共産党の一領袖であり、長姉宋藹齢の夫孔祥熙、弟宋子文ともに国民政府 の要路を占め、恰も楊貴妃一門の栄華にも似ている。宋美齢の夫蒋紂王の無智乱行もさることながら、それは、やはり姐己の矯艶胸三寸から来ているのだ。そう して紂王はついに誅せられ、殷亡びて周の天下となった。唐の玄宗皇帝は楊貴妃を愛し、貴妃の一門ことごとく堂に昇って栄華を極め詩人白楽天をして不重生男 重生女と嘆ぜしめた。長生殿い連理比翼を契り、華清の温泉に艶麗凝脂を洗い、玄宗、貴妃の両人は歓楽と栄華とを極めた。貴妃には姐己の如き悪どさはなかっ たとしても、玄宗をして国事を誤らしめたことはたしかであり、安碌山の変起るに及び、味方の軍勢から馬蒐の駅で斬られた。やはり玄宗を誤ったものは楊貴妃 であり、その結果を自ら招いたものである。

炮烙の刑 殷の紂王が行った酷刑で銅柱に膏を塗ってこれを火の上にかけ、その上を罪人を歩かせると罪人は足が滑って火中に転落焼死するという一種の火炮の刑である
蠹盆の刑 蠹はさそりの一種で毒虫の密集する穴の中に罪人を投げ込んで殺すという刑罰

皮気

 支那に皮気という言葉がある。「僻」と訳しているが、日本語の僻という言葉よりは、もっと深刻でもっとどぎついものである。突拍 子もないことをいい出し、いい出したら、いつかなきかない、何かいうと益々反撥して来る。こういうような悪どい僻である。この皮気は支那の女につきもので ある。女が少しでもえらくなったり、生れつき、または偶然の結果えらい地位にでもなったりすると、この皮気は増長する。それが国の支配介石をいじめる皮気 のあるかないかは分らないとしても、日本を毛嫌いする皮気はたしかにある。彼女はわけもなく日本が嫌いなのである。そうして日本には嫌う女を懐柔して行く 手管はないのであるから、結局、宋美麗はいつまでも日本嫌いであり、この皮気は死ぬまで癒らぬであろう。
 宋美麗の魅力は、その聡明にあるといわれる。しかし、支那では女は聡明だけでは必ずしも男性を引っ張れないという。このことについては李笠翁 が細かく支那の女を観察している。女の魅力は第一に天性の麗質であり、第二に扮装技巧であるという。天生麗質難自棄といい、回頭一笑百媚生という。詩人は 飾るというけれども支那の女における事実は、それ以上であるかも知れない。喜怒哀楽を色に現さず、命かけての恋をさえ胸に秘めて黙って死んで行くことさえ ある日本の女に較べて、支那の女の生活は浮草の如く恋を渡って歩く生活である。昔から日本の社会は義理人情に私情を殺して死んで行く生活である。近松の戯 曲を見ても、共に死なない男女のしがらみというものはない。支那の女はめったに情死しない。情死するよりは生きて苦労しようという。生きてさえおれば、ま たいい月も照ろうと考えるのである。

胡蝶夢

 支那の古劇に胡蝶夢という劇がある。野辺の墓場に喪服の女が扇をもって墓を□いでいる。そこを通りかかった荘子が、そのわけを たずねると「夫が死ぬとき自分の墓の土が乾くまで結婚して呉れるなというた、それで早く乾くように□いでいるのだ」という。荘子家に帰って妻に女心の浅ま しさをいう。妻は「私はあなたが死んでも嫁しません」という。荘子は死す。その時、楚国の公子、荘子を訪れて来る。荘子の妻は眉目清秀の楚国の公子を見 て、喪服をかなぐり棄てて恋を迫る。公子病む。この病気には死して三日経たない人間の脳が必要だという。恋に狂うた荘子の妻は荘子の脳を取り出さんと斧を 振うて棺を開く。棺を開くと、豈計らんや、その中から生きた荘子が現れて妻をせめる。浮草の如き女心を戒めた劇である。これで支那に情死というものの少い ことも分ると思う。支那の女は生きて楽しめば、この上もないいい対手であるかも知れないが、共に死んで行くほどの純情をこれに求むることは無理であろう。 「孔子は夫死して嫁せず」といっているが、それは夫死して墓の土の乾かぬうちにさえ嫁するものが多いから、これを戒める意味で道徳律をいったものである。 論語はこれを逆読すれば支那の社会にしっくりあてはまるところに面白味がある。例えば、本稿の冒頭に支那の女が街頭に叫ぶといったが孔子は「女、外に言わ ず」といっている。女が余りにも外にいい過ぎるから、これを戒めているのである。女の街頭に叫ぶこと今も昔も同様である。

データ作成:2003.10 神戸大学附属図書館

1 件のコメント:

Aoi さんのコメント...

最近毎日欠かさず食べているのがこれ。
燕の巣です。

燕の巣は瓶入りが便利。
乾燥の燕の巣そのもののものは保存が効くけれど、食べるときに自分で煮ないといけないのでちょっと大変です。
瓶入りのものは原材料が燕の巣と水だけなので、保存があまり効かないけれど(この燕の巣は冷蔵庫で約1ヶ月)、すぐに食べられるのでとても重宝します。
燕の巣自体は無味無臭なので、私はヨーグルトに混ぜて食べています。
これは無糖ですが砂糖入り(シロップ)のものもあります。

http://www.geocities.jp/hongkong_bird_nest